〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/09 (金) “青写真” なしの新国家 A 

○ところで、ここに西郷の念願に叶うかのごとき人物の評判が東京まで聞えてきます。
紀州いまの和歌山県の人で津田出 (イズル) という人でした。
天才的な経綸家でした。
ここで紀州藩のことを述べておかねばなりません。
この藩が、御三家 (紀州・尾張・水戸の徳川家) の一つであることは、御存知のとおりです。将軍家の後嗣が絶えれば、多くの場合、紀州徳川家から迎えられます。江戸時代、五十五万五千石。大藩かつきらびやかな名門ではありましたが、山の多い土地で、財政が豊かではありませんでした。
最後の藩主徳川茂承 (モチツグ) (1844〜1906) が偉かったのかも知れません。この人は養子として入りましたが、江戸期の大名で大いに藩政に力を尽くした人は茂承のように養子が多かったのです。
なにしろ御三家ですから、幕末の第二次長州征伐には、幕府から藩主茂承は先鋒総督を命ぜられて広島まで行きました。ただでさえ窮迫している藩財政が、この出費でいよいよ苦しいものになった上に、長州征伐の方も、百姓部隊である長州の奇兵隊に打ち負かされて上手く行きませんでした。
藩主茂承は、この広島の戦線で、封建制の崩壊を感じて、悲痛な思いを持ったようでした。
太平の世なら藩政は門閥家老に任せておけばよい。いまは眼前に亡びを予感する非常の世である。非常の人事をしなければならない。茂承はそう決意し、国許へ指令して、津田出を抜擢したのです。
「御用御取次 (ゴヨウオトリツギ)
という特別職を与えました。
津田はこのとき、年三十四、五です。
彼は、もともと藩主のそば近くに仕えていた教養人でした。荻生徂徠の学問、ちまり江戸期に、観念論というか、イデオロギーの固まりのような朱子学を排し、文献や、物事を考える上で、事実・真実を見確かめてから考える、いわば合理主義哲学よもいうべき学問の系統を学びました。あわせて、蘭学も学んだのです。彼は和歌山城下に居ながらヨーロッパの一隅に生まれたのではないかと思われるほどに、時代と風土から抜きん出ておりました。
津田は “奥裕筆組頭 (オクユウヒツクミガシラ)” という、公文書を書く役目の長をつとめていました。この経歴でわかるとおり、津田は、薩摩の西郷のように風浪にもまれて世を生きのびた人ではなく、書斎の思索家であり、しかも紀州徳川家という金屏風の中で育った人でもありました。
しかし、勇気はあります。
慶応二 (1866) 年、藩主茂承に差し出した “藩政改革論” (正しくは 「御国政改革趣法概略表」。表というのは藩主のみに奉る意見書のことです) は二百七十藩に類を見ない思い切ったもので、あたかも藩をヨーロッパの一公国のようにする、というふうなものでした。
幕藩体制の基本は、武士制度にあります。その武士の制度を廃止して、百姓にしてしまい、本来有閑の人である彼らをして田畑を耕作させる、というのです。武士たちが聞けば、震え上がるでしょう。
それ以上に武士たちを戦慄させる事は、武士たちがバカにして差別してきた百姓を兵にしてこれに洋式訓練を施し国家の (この場合の国家は紀州藩のことです) 防衛に当らせるということでした。改革というより、革命といえるでしょう。
ちょっとここで申しますが、内臓外科は、外科医という他者がやるべきもので、病人自らがメスを取って自分の肺臓や心臓や胃の腑を切り取るということは出来ないものです。しかし、紀州藩は---よいっても藩主と津田出だけですが---それをやろうとしたのです。
なぜこれほど切迫していたのか。亡びを待つよりも、古びきった自らの心臓 (この場合は武士制度です) を自分で取り出して他の心臓 (この場合は農民です) と入れ替えた方がよい。もことに物狂いとしかいえませんが、そこまでしようとしたのは、日本がヨーロッパに征服されて植民地にされるかもしれないという、この時代に共通した危機意識があったからです。その危機意識は、それぞれの個性の気質によって、一方では攘夷と言う排外直接運動になり、一方では、国を開き、洋式 (西欧文明) を取り入れて、技術的に国防を強くする、つまり開国主義になるのですが、根は日本が亡びるかも知れないという危機意識にありました。
ただ、藩主徳川茂承も、その文書課長である津田出も、一紀州藩の者です。幕府の人間ではありませんから日本の国政をどうこうする立場にない。つまり、前々回で述べた幕府の高官小栗上野介忠順の位置にはない。しかし、小栗の気分は、一和歌山---紀州藩ですが---のものでもあったのです。そのことを理解せねば、幕末も明治国家も理解できません。
ここで、全くの余談を申しあげますが、私の祖父は、私の父親がその人の五十のときの子でありますので、私とは年代がかけ離れていて、幕末にすでに少年でした。播州 (兵庫県) の姫路の海ぎわの広という字の農家の出で、大正初期、家屋敷を売って米相場をする為に大坂に出てきました。
この人は全くの攘夷主義者で、チョンマゲを切らず、明治三十八年、つまり日本がロシアの南下という、幕末以来の危機状況を実力ではねかえしたという年、具体的に言えば日露戦争の終了でもってはじめてチョンマゲを切りました。
当人にすれば、チョンマゲを切ることは、はなはだ象徴的であったと思います。やっと攘夷が終ったからです。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ