〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/09 (金) “青写真” なしの新国家 @ 

○明治国家の四十四年間は、薩長の世といわれています。その是非をここで論ずるのではありません。
薩人というのは、不思議な文化を持っていました。
「貴方 (オハン) 、たのむ」
という文化です。自分は利口だと思うより、自分はバカだと思い込む文化で、むろん、すべての薩人がそうではありません。しかし、そのようにする薩人が節目の薩摩人だとされたことは確かです。
上に立った場合、自ら考えて走り回るよりも、有能な下僚を見つけてきて、おはん頼む、ということなのです。
連れてきたその人がもし失敗すれば、上に立つ自分がひっかぶります。大方針をその人に言い聞かせて任せた以上、こまごました事は口出ししません。旧藩の頃から、こういう型があったようです。
ここで、幾人でも明治の薩摩人の中から、そういう型の人々の例をあげることが出来ますが、この型の最大の具現者が、西郷隆盛でした。
明治維新成立後、西郷はなにやら虚無的になっていました。時代が旋回し、ほとんど歴史物理といったような力が働いて明治維新が成立した時、いざ出来上がってみて、彼はさびしかったようです。
彼が持つ、ほとんど体系化し難いほどに大きい、しかし多分に固体化されていないその理想から言えば、輝きの少ない国家でした。
それに彼は超人的な無私の心がありました。その心は、新しい権力に酔う新政府の権官たちのさざめきを、彼に嬉しいとは感じさせなかったのです。彼は日本橋の河岸に沿った屋敷で下僕と住みながら鬱々としていました。
西郷は、当時のだれの目からも革命の最大の功労者として見られており、栄光と賞賛で包まれていました。が、戊辰の戦争から東京へ帰ってきた彼は、ほとんど隠者のようでした。

ここで、あえて申し添えておかねばなりませんが、西郷は甘い理想主義者でも、書斎派の文人でもありませんでした。旧幕時代、彼は奔走家として有名で、また藩から島流しにあったことが二度もあり、さらには、彼は目的の為には氷のように冷たい革命戦略を考えたり実行したりした人でもあり、要するに四十数年を風雨に打たれて過ごしてきた人でした。
そういう人が、少年のように身をかがめて悩んだのです。
この人物にとって、権力欲は、小さいものでした。人を狂わせるというこの欲望を、彼はその巨大な意志力で押し潰していました。
後世、不思議に思うことがあります。西郷が、革命の最大の英雄なのに、なぜ革命政府の首領の座につかなかったかということです。
西郷は、明治二年、功によって賞典禄二千石をもらっただけでした。正三位の位をもらいましたが、半年以上かけてこれを断りました。要するに西郷はこの時期、詩を書いたり、書を書いたりすることにむしろ情熱をもっていました。
じつをいいますと、西郷は幕府を倒したものの、新国家の青写真をもっていなかったのです。新国家の青写真をもっていた人物は、私の知る限りでは土佐の坂本竜馬だけでしたが、この人も、維新前夜にテロルに遭ってこの世にはいません。
----たれか、賢い人はいないか。
西郷は、自らは引っ込んで、そんなことを考えていたのです。
こんな革命の成功者は、古今居たでしょうか。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ