〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/29 (土) 彼 の 人 ・ こ の 人 (四)

潮の満干は、太郎左衛門には、店の商売上と、直接の関係があるので、問われると、言下に、
「はいこの頃は、明けの卯之刻から辰のあいだに、潮が干きりましいて、左様、もうそろそろ潮が上げ始めている頃あいでござりまする」
と、答えた。
武蔵は、うなずいて、
「左様か」
と、つぶやいたきり、また、白い画箋に向かって、黙然としていた。
太郎左衛門は、そうっと、襖をしめて、元の座敷へ退って行った。 ── 他人事でなく、気にはかかるが、どうしようもなかった。
元の位置に、自分も落ち着くつもりで、しばらく坐ってみたが、時刻が、時刻が、と思うと、坐ってもいられなくなる。
つい立って、浜座敷の縁などへ出てみた。海門の潮は今、奔流のように動いていた。浜座敷の下の干潟へも、見ているうちに、ひたひたと潮は上げて来る。
「お父さま」
「お鶴か。・・・何をしているのじゃ」
「もうお出ましも間もないかと、武蔵様のお草鞋を、庭口の方へ廻して参りました。
「まだだよ」
「どうなされましたか」
「まだ、画を描いていらっしゃるのだ。・・・・よいのかなあ、あんなに悠 (ユル) りしていて」
「でも、お父さまは、お止めに行ったのじゃないのですか」
「── 行ったのだが、あの部屋へ行くと、妙に、止めるのもお悪い気がしてなあ」
── すると、何処かで、
「太郎左衛門殿っ、太郎左衛門っ」
声は、家の外だった。
庭先の干潟へ、細川藩の早舟が一艘、漕ぎ寄せていた。
その早舟の上に突っ立っている侍が呼んだのだ。
「おう、縫殿介様で」
縫殿介は、舟から上がらなかった。縁には太郎左衛門の姿が見えたのを幸いに、そこから仰向いて、
「武蔵どのには、もはや、お出ましなされたか」
と、訊ねた。
太郎左衛門が、まだ ── と答えると、縫殿介は早口に、
「では、少しも早く、ご用意をととのえて、お出向き下さるよう、お伝え下さい。すでに相手方の佐々木巌流どのにも、藩公のお舟にて、島へ向かわれたし、主人長岡佐渡様にも、今し方、小倉を離れましたれば」
「かしこまりました」
「くれぐれも、卑怯の名をおとりなさらぬよう、老婆心までに一言を・・・・」
いい終わると、先を急くように、早舟はすぐ櫓を回して、漕ぎ去った。
── が。太郎左衛門もお鶴も、奥の静かな一間を振り向いたのみで、そのまま、わずかな時間を長い気持ちで、縁の端にならんで待っていた。
けれど、いつまでも、武蔵のいる部屋の襖は、開こうともしなかった。物音らしい気配も洩れてこなかった。
二度目の早舟がまた、裏の干潟に着いて、一人の藩士が駈け上がってきた。今度の使いは、長岡家の召使ではなく、船島から直に来た藩士であった。

襖の音に、武蔵は目を開いていた。 ── で、お鶴が声をかけるまでもなかった。
二度まで、催促の使いが、早舟で来た由を告げると、武蔵は、
「そうですか」
ニコと、ただうなずく。
だまって、どこかへ出て行った。水屋で水音がする。一睡した顔を荒い、髪でも撫で付けているらしい。
その間、お鶴は、武蔵がいた後の畳へ目を落としていた。さっきまで、白紙だった紙には、どっぷりと墨がついている。一見、雲のようにしか見えないが、よく見ると、破墨山水 (ハボクサンスイ) の図であった。
画はまだ濡れていた。
「お鶴どの」
次の間から武蔵が言う。
「── その一図は、御主人に上げてください。また、もい一図は、今日共をしてくれる船頭の佐助に後でお遣わし下さい」
「ありがとう存じます」
「意外なお世話に相成ったが、なんのお礼とてもできぬ。画は遺物 (カタミ) がわりに」
「どうぞ、今日の夜にはまた、夕べのように、お父さまと共に、同じ燈火 (トモシビ) の下でお話ができますように」
お鶴は、念じて言った。
次の間では、衣の音がしていた。武蔵が身支度しているものと思われた。襖ごしの声がしなくなったと思うと、武蔵の声は、もう彼方の座敷で、父の太郎左衛門と何か二言三言、話している様子だった。
お鶴は、武蔵が支度していた次の部屋を通った。彼の脱いだ肌着小袖は、彼自身の手で、きちんと畳まれて、隅のみだれ箱に重ねてあった。
言い知れぬ淋しさが、お鶴の胸をつきsげた。お鶴は、まだその人の温みを残しいぇいる小袖の上に顔を投げ伏せた。
「・・・・・お鶴。お鶴」
父の呼ぶ声だった。
お鶴は、答える前に、そっと瞼や頬を指の腹で撫でていた。
「・・・・お鶴っ。何をしておる。お立ちになるぞ。はや、お立ちになるぞ」
「はいっ」
われを忘れて、お鶴は駈け出して行った。
── と見れば、武蔵はもう草鞋を穿いて、庭の木戸口まで出ている。彼は、あきまで人目に立つのを避けていた。そこから浜づたいに少し歩けば、佐助の小舟が、疾くから待っている筈だった。
店や奥の者、四、五人が、太郎左衛門と共にそこへ出て、木戸口まで見送った。お鶴は、何もいえなかった。ただ武蔵のひとみが、自分のひとみを見た機 (シオ) に、だまって、皆と一緒に、頭を下げた。
「── おさらば」
最後に、武蔵が言った。
頭を下げ揃えたまま、誰も頭を上げなかった。武蔵は柴折 (シオリ) の外へ出て、静かに柴折戸を閉め、もう一度言った。
「では、ご機嫌よう・・・・・」
人々が、頭を上げた時は、もう武蔵の姿は彼方を向いて、風の中を歩いていた。
振り向くか ── 振顧るか ── と太郎左衛門始め、取り残された人々は、縁や庭垣から見守っていたが、武蔵は振り向かなかった。
「あんなものかなあ、お侍というものは、なんと、あっさりしたものじゃろう」
誰か、つぶやいた。
お鶴は、すぐ、そこに見えなくなっていた。太郎左衛門もそれを知ると、共に奥へ姿を隠した。

太郎左衛門の住居の裏から浜辺づたいに一町ほど歩むと、巨 (オオ) きな一つ松がある。平家松とこの辺りでは呼ばれている松 ──
先に小舟を廻して、雇い人の佐助は、今朝夙くからそこに待っていた。武蔵の姿が今、その辺りまで近づいたかと思うと、誰か、
「おおう!・・・・先生ッ」
「武蔵殿」
ばたばたっと、足もとへ転び付すばかりに、駈け寄ってきた者があった。

吉川英治全集 『宮本武蔵 (四) 』 著・吉川 英治 発行所・講談社 ヨ リ