〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/28 (金) 彼 の 人 ・ こ の 人 (三)

また、こうも想像される。
武蔵が、この小林太郎左衛門の住居へ、先頃から身を寄せたのも、そうした縁から、伊織の世話になった礼を述べるためにも、下船後、太郎左衛門の家へ立ち寄り、太郎左衛門と親しくなったからではあるまいか。
武蔵が逗留中は、父のいいつけで、お鶴が彼の身のまわりを世話していた。
現に、昨夜なども、武蔵が父と夜更けるまで、話し込んでいるあいだ。彼女は他の部屋で、頻りと縫物などをしていた。それは武蔵が、
(試合の当日は、何も支度は要り申さぬが新しき晒布の肌着と下帯だけは整えておきたく思います)
と、何かの折に言ったので、肌着のみならず黒絹の小袖も帯紐も新しく縫って今朝までに、しつけ糸を抜けばよいように、すべて揃えてあるのだった。
仮に ──
ほんの、かりそめに、太郎左衛門ふぁけの親心であったが、
(娘は、あの人に、淡い思いを寄せているのではあるまいか。 ── もし、そうだとしたら、今朝のお鶴の心は)
と、ふと、そんな思い過ごしもしてみるのだった。
いや、思い過ごしでないかも知れなかった。お鶴の今朝の眉には、どことなく、そうした心の色がただよっている。
今も。
父の太郎左衛門に茶を汲んでから、父が黙然と海を見ていると、彼女も、いつまでも黙って、もの思わしく、海の青を凝視していた。そして、その眸までが、海のあふるる如く、涙になりかけた。
「お鶴・・・・」
「はい・・・・」
「武蔵様は、どこにお在でか。朝の御飯は、さし上げたか」
「もうお済でございます。そして、あちらのお部屋を閉めて」
「そろそろ、お支度中か」
「いいえ、まだ・・・・」
「何をしていらっしゃるのだ」
「絵を描いていらっしゃるようです」
「絵を・・・・・?」
「はい」
「・・・・ああ、そうか。心ないおねだりをした。いつぞや、画の話が出た折、なんぞ一筆でも、後の思い出にも ── と、わしが御無心しておいたので」
「今日船島まで、お供をしてゆく佐助にも、一筆遺物 (カタミ) に描いてつかわすと、仰っておいでにまりましたから・・・・・」
「佐助にまで」
太郎左衛門はつぶやいて、急に自分が落ち着かない気持ちにせかれた。
「 ── もう、こうしてる間にも、時刻は迫るし、見えもせぬ船島の試合を、見ようと騒いでゆくたくさんの人たちも、ああして往来を押し流して行くのに」
「武蔵様は、まるで、忘れたようなお顔をしていらっしゃいます」
「画などの沙汰ではない。・・・・お鶴、お前が行って、どうぞもう、そのようなことは、お捨て措き下さいと、ちょっと申し上げて来い」
「・・・・・でも、わたしには」
「いえないのか」
太郎左衛門は、その時、はっきりとお鶴の気持ちを覚った。父と娘は、ひとつ血である。彼女の悲しみも傷みも、そのまま、太郎左衛門の血にひびいていた。
が男親の顔は、さり気なかった。むしろ叱るように、
「ばか。何をめそめそと」
そして自分で ── 武蔵のいる襖の方へ立って行った。

そこは、ひそと、閉めきってあった。
筆、硯、筆洗などをおいて、武蔵は、寂として坐っていた。
既に画き上がっている一葉の画箋には、柳に鷺の図が描いてあった。
── が、前に置いてある紙には未だ一筆も落としてなかった。
白い紙を前にして、武蔵は、何を描こいかと、考えているらしい。
いや、画想をとらえようとする理念や技巧より前に、画心そのものに成りきろうとする自分を静かにととのえている姿だった。
白い紙は、無の天地と見ることができる。一筆の落墨は、たちまち、夢中に有を生じる。雨を呼ぶことも、風を起こすことも自在である。そしてそこに、筆を把った者の心が永遠に画として遺る。心に、邪 (ヨコシマ) があれば邪が ── 心に堕気があれば堕気が ── 匠気 (ショウキ) があればまた匠気のあとが蔽い隠しようもなく遺る。
人の肉体は消えても墨は消えない。紙に宿した心の象 (カタ) はいつまで呼吸してゆくやら計りがたい。
武蔵は、そんなこともふと思う。
が、そんな考えも、画心の邪 (サマタゲ) である。白紙のような無の境に自分もなろうとする。そして筆持つ手が、我でもなく、他人 (ヒト) でもなく、心が心のまま、白い天地に行動するのを待っているような気持ち ──
「・・・・・・」
その姿に、狭い一間は寂としていたのである。
ここには往来の騒音もなければ、今日の試合もよそ事のようだった。
ただ中庭の坪 (ツボ) の女竹 (メダケ) が、ときおり、かすかな戦 (ソヨギ) を見せるだけで ── 。
「・・・・・もし」
音もなく、いつか、彼のうしろの襖が少し開いていた。
主の太郎左衛門であった。そっと、そこを窺ったものの、あまりに静かな彼の姿に、呼びかけるのさえ、憚られて、
「・・・・・武蔵様。もし・・・・せっかくお楽しみのところを、お邪魔いたして恐れ入りますが」
彼の眼にも、武蔵のそうしている容子 (ヨウス) は、いかにも画に楽しんでいる姿に見えたのだった。
武蔵は、気がついて、
「おう、亭主どのか。・・・・・・さ、はいられい、そのように閾際 (シキイギワ) で、なにをご遠慮」
「いえ、今朝はもう、そうしてもおられますまい。・・・・やがて、お時刻が迫りまするが」
「承知しています」
「お肌着や、懐紙、手拭など、お支度の物を取り揃えて、次の部屋に起きましたゆえ、どうぞいつなりとも」
「かたじけのうござる」
「・・・・・そしてまた、てまえどもへ下さるための画でございましたなら、どうぞもうお捨て置きくださいまして。・・・・また、首尾よう船島からお帰りの後にゆるゆると」
「お気ずかいなさるな。どうやら今朝は、すがすがしゅうござるゆえ、かような時に」
「でも、時刻が」
「存じています」
「・・・・では、お支度にかかる時には、お呼びくださいまし、あちらで控えておりますから」
「恐れ入るのう」
「どういたしまして」
かえって、邪魔をしてもと、太郎左衛門が退がりかけると、
「あ、亭主どの ── 」
と、武蔵の方から呼び止めて、こう訊ねた。
「この頃の、潮の満干 (ミチヒ) は、どういう時刻になっておろうか。今朝は、引潮時でござるか、上げ潮時でござろうか」

吉川英治全集 『宮本武蔵 (四) 』 著・吉川 英治 発行所・講談社 ヨ リ