〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/28 (金) 彼 の 人 ・ こ の 人 (二)

一方 ──
同じ準備は、対岸の赤間ヶ関にある武蔵のほうにも、当然のこと、はや追っていたわけでsる。
早朝。長岡家の使いとして、縫殿介と伊織の二人が、武蔵の返書を携えて、たち帰って行った後。 ── 彼の身を寄せている廻船問屋の主、小林太郎左衛門は、浜納屋の路地づたいに、店頭へ姿を見せ、
「佐助。佐助はいないか」
よ、探していた。
佐助というのは、大勢の雇人の中でも、よく気のつく若い者で、住居の方でも重宝に使い、暇があると店のほうを手伝っていた。
「おはようございます」
主人の姿を見て帳場から降りてきた番頭は、まず朝の挨拶をして、
「佐助をお呼びで。 ── はい、はい、今しがたまで、そこらのおりましたが」
と、他の若い者へ向かい、
「佐助を探しておいで、佐助を ── 。大旦那がお召しだ。いそいで」
と、いいつけた。
それからも番頭は何か、店の事務について、荷物の回漕やら船配りなどについて、さっそく、主人に報告的なおしゃべりを始めたが、太郎左衛門は、
「後で、後で」
耳たぶの蚊を払うように顔を振り ── それとはまったく関りのないことを訊ね出した。
「誰か、店の方へ、武蔵様を訪ねて見えた者があるかね」
「へ。ああ、奥のお客様のことで。 ── いや今朝がたも、訊ねて見えたお人がございましたが」
「長岡様のお使いだろう」
「左様で」
「その他には」
「さあ? ・・・・・」
と、顔を抑えて、
「てまえが会ったのではございませんが、昨晩、大戸を卸してから、穢い身なりをした目の鋭い旅の男が、樫の杖をついて、のっそり入って来て ── 武蔵先生にお目にかかりたい。先生には下船以来、当家にご逗留と承るが ── といって、しばらくかwらなかったそうでございますよ」
「誰がしゃべったのだ。あれほど、武蔵様の身については口止めしておいたのに」
「なにしろ、若い衆たちは、今日のことがございますので、ああいうお方が、御当家に泊まっているということは、何か自分達の自慢のように、つい口へ出してしまうらしいので ── てまえも厳しく申し聞かせてはございまするが」
「そして、ゆうべの、樫の杖をついた旅の人とかはどうしたのか」
「総兵衛どのが、言い訳に出まして、何かのお聞き違いでございましょうと ── どこまでも武蔵様はいないことに押し通して、やっと、帰したそうでございます。 ── 誰かその時、大戸の外にはまだ二、三人も ── 女子の影も交じって佇んでいたとやらいうておりましたが」
そこへ。
船着きの桟橋の方から、
「佐助でございます。大旦那、何か御用でございますか」
「おお佐助か。べつに、他の用じゃないが、お前には今日、大役を頼んである。念を押すまでもないが合点だろうな」
「へい、ようく心得ておりまする。こんな御用は船師一代のうちにもないことだと思いまして、今朝はもう暗いうちから起きて、水垢離をかぶり、新しい晒布で下っ腹を捲いて待っておりますんで」
じゃあ、夕べも吩咐 (イイツ) けておいたが、舟の支度も、いいだろうな」
「べつに、支度といっても、何もございませんが、たくさんな軽舸 (ハシケ) の中から、脚の迅い、そして穢れのないのを選って、すっかり塩を撒いて、船板まで洗って置きました。 ── いつでも、武蔵様のほうさえ、お支度がよければ、お供をするようになっております」

太郎左衛門はまた、
「そして、舟は、どこへ繋いでおいたか」
と、たずねた。
佐助が、いつもの船置きの岸に ── と答えると、太郎左衛門は考えていたが、
「そこでは、お立ちの際、人目につく。 ── どこまでも、人目だたぬようにというのが武蔵様のお望み、どこぞ、他の場所へ廻しておいてもらいたいのう」
「かしこまりました。では、どこへ着けておきましょうか」
「住居の裏より、二町ほど東の浜辺 ── あの平家松のある辺りの岸なら、往来も稀だし、人目にもそうかかるまい」
そう吩咐つけている間にも、太郎左衛門は、自分までが、何やら落ち着かぬ様子だった。
店も、平常とちがって、今日はめっきり暇だった。子 (ネ) の刻過ぎまで、海門の船往来が止められているせいもあろうし、また、対岸の門司ヶ関や小倉と共に、その長門領一帯でも、すべての者が、船島の今日の試合を、心がかりにしているせいもあろう。
そう思って往来を眺めると、どこへ指して行くのJか、夥しい人出であった。近藩の武士らしい人々、牢人、儒者風の者、鍛冶、塗師、鎧師などの工匠たち、僧侶から雑多な町人や百姓までが ── その中には被衣 (カツギ) だの市女笠 (イチメガサ) だの女のにおいをも蒸れたてて ── おなじ方角へ、流れて行くのだった。
「はよう、来やい」
「泣くと、捨てて行くぞよ」
漁師の女房たちであろう、子を背負ったり、手に曳いたり、今が今にも、何事かあるように、わめいて通るのもあった。
「なるほど、これでは・・・・」
と、太郎左衛門も、武蔵の気持ちが分かる気がした。
識者顔する者の、毀誉褒貶 (キヨホウヘン) さえかなり耳うるさいところへ、この人出の埃は、他人の死ぬか生きるかを、勝か負けるかを、ただ興味として、見物に駈けて行く ──
しかもまだ、時刻までに、幾刻か間もあるのに。
そして、船止めとなっているからには、元より海上へは出られず、遠く陸地とは絶縁されている船島の現地が、たとえ山や丘へ上がっても、見える筈もあり得ないのに。
しかし、人が行く。そして、人が行くと、家にいられない人々が、わけもなく、ぞろぞろと行くのだった。
太郎左衛門は、ちょっと往来へ出て、一巡そんな空気に触れながら、やがて、住居へ戻って来た。
彼の居間も、武蔵の寝ていた部屋も、もうすっかり、朝の掃除が終っていた。
開けひろげた浜座敷の天井の木目に、ゆらゆらと、波紋の渦がうごいていた。すぐ裏がもう海だった。
波から刎ね返る朝の陽が、ふわ、ふわ、と光の斑になって、壁にも障子にも遊んでいる。
「お帰りなさいませ」
「お。お鶴か」
「どちらへお出でになったのかと彼方此方、探していましたのに」
「お店の方にいたのだよ」
お鶴のついだ茶を取って、太郎左衛門は、静かに見入っていた。
「・・・・・・・」
お鶴も黙って海を見ていた。
太郎左衛門が、目に入れても痛くないほど可愛がっているこの一人娘は、先頃まで泉州堺港の出店にいたが、ちょうど武蔵が来る折り、同じ船で、父の許へ帰っていた。お鶴はかなて伊織をよく世話したこともあるので、武蔵が疾く伊織の消息に詳しかったのは、船中で、この娘から、何かの話を聞いていたのかも知れなかった。

吉川英治全集 『宮本武蔵 (四) 』 著・吉川 英治 発行所・講談社 ヨ リ