〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/27 (木) 彼 の 人 ・ こ の 人 (一)

縫殿介 (ヌイノスケ) は、いそいで来た。
主人の長岡佐渡が、今朝、船島へ出向くまでに間に合うようにと。
吩咐 (イイツ) けられた六名の屋敷を、それぞれ駈け回って、武蔵の返書と次第を告げ、どこでも茶も飲まずきっ返して来た途中なのである。
「あっ。巌流の・・・・?」
彼は、その急ぐ足を止めて、思わず物陰にたたずんだ。
そこは、御浜奉行の役宅から半町ほど先の海辺だった。
そこの岸からが、早朝よりたくさんの藩士が、今日の試合の立会や、検視や、また、不慮の場合の警備だの、試合場の準備だのとして、番頭以下足軽組まで、幾組にも分かれて、ぞくぞくと船島をさして出発していた。
── 今も。
お船手の藩士が、一艘の新しい小舟を寄せて、待っていた。
舟板から水箒 (ミズホウキ) やもやいの棕梠縄 (シュロナワ) まで卸したばかりの真新しい舟だった。
縫殿介は一目見て、それは藩公から特に巌流へくだされた舟と知った。
舟に、特徴はないが、そこらに佇んでいる百名以上の人々の顔ぶれが、皆、日ごろ巌流と親しい者か、或いは見馴れない顔ばかりなので、すぐ知ったのである。
「おお、お出でなさった」
「見えられた」
人々は、舟の両側に立って、おなじ方角を、振り向いた。
磯松の陰から、縫殿介も、彼方を見ていた。
御浜奉行の休み所に、乗ってきた駒を繋いで、佐々木巌流は、しばらくそこに休憩を取っていたものとみえる。
そこの役人達にも見送られ、巌流は、日頃の愛馬を、託していた。そして共として、内弟子の辰之助一名を連れ、砂を踏んで此方の舟のほうへ歩いて来た。
「・・・・・・・」
人々は、巌流の姿が、近づいて来るに連れ、粛として、おのずから列をなし、彼の道を開いていた。
それと人々は、その日の巌流の扮装 (イデタチ) に恍惚として、自分達までが武者震いのようなものを覚えた。
巌流は、浮織 (ウキオリ) の白絹の小袖に、眼のさめるような、猩々緋 (ショウジョウヒ) の袖無羽織をかさね、葡萄色の染革 (ソメガワ) の裁附 (タツツケ) 袴を穿いていた。
足拵えは、もちろん、草鞋 ─ すこし潤してあるかにみえる。小刀は、仕官以後は遠慮して差さなかった例の 無銘 ─ しかし肥前長光ともいわれている ─ 愛刀物干竿を、久しぶりに、その腰間に、長やかに横たえていた。
その刀は、三尺余もあるので、見るからに業刀 (ワザモノ) と思われ、送りの人々の身を見張らせたが、より以上、その長剣がすこしも不似合いでない彼の優れた骨がらと、猩々緋の真っ紅なのと、色の白い豊頬な面 (オモテ) と、そして肩も動かさない落ち着いた態度の美に ─ 何か荘重なものを見ていた。
波音と、風に紛れて、縫殿介がいる辺りまでは、人々の声も、巌流の言葉も、聞えては来なかったが、巌流の面には、これから生死への場所へ臨む者とは思えぬ和やかな笑みが、遠くからでも明るく見えた。
彼は、その笑みを、能うかぎり、知己朋友に、万遍なくふり捲いて、やがて、どよめく声援に包まれながら、新しい小舟へ乗った。
弟子の辰之助も乗った。
船手方の藩士が、二人乗り込んで、一名は舳 (ミヨシ) に腰掛け、一名は櫓をにぎる ──
それと、もう一つの共のものは、辰之助の拳に据えて来た鷹の天弓 (アマユミ) である。小舟が岸を離れると一斉に歓声を送った人々の声に愕いたのであろう。天弓は、パッとひとつ、大きく翼を搏 (ウ) った。

浜辺に立って見送っている人々は、いつまでも立ち去らなかった。
それへ応えて、巌流も、舟の中から、振り向いていた。
櫓を漕ぐ者も、殊さら、舟を迅く行ろうとはせず、大きく弛く、波を切っていた。
「そうだ、時刻が迫った。おやしきの旦那様にも早・・・」
縫殿介は、われに回って、たたずんでいる磯松の陰から、急に帰りかけた。
その時、ふと気がついたのであった。彼が倚せていた松から六、七本目の同じような磯松の陰に、ひたと身を寄せて、独り泣いている女がある。
遠く小さく ── 海の青に溶けてゆく小舟を ── いや巌流の姿を、見送ってはまた、よよと木陰に泣いていた。
それは巌流が、小倉に落ち着いてからの浅い年月、巌流のそばに仕えてきたお光であった。
「・・・・・」
縫殿介は、目を反らした。そして彼女の心を愕かさぬように、足音を忍ばせて、浜から町の道へ出て行った。
ふと、気になるまま、
「── 誰にも、裏と表はあるもの。晴れの姿の陰には、愁いに傷む人のあるのも・・・・」
と、つぶやいて、人目を離れて悲しむ一人の女性と、もう沖へ、うすれて行く巌流の落ちつきぶりを称え、今日の試合の必勝を、彼の上に期待しながら ──。

「辰之助」
「はっ」
「天弓を、これへ」
巌流は、左の拳を差し伸べた。
辰之助は、自分の拳にすえていた鷹を、巌流の手へ移して、少し下がった。
舟は今、船島と小倉との間を扱いでゆく。海峡の潮流は、ようやく急であった。空も水も、澄みきった好晴の日であったが、浪はかなり高かった。
舷 (フナベリ) から水玉のかkるたびに、鷹は逆毛を立てて、凄愴な姿態を作った。今朝は、飼い馴れたこの鷹にも、戦氣があった。
「お城へ帰れ」
巌流は足環を解いて、鷹を拳から空へ放った。
鷹は、常の狩場の的のように、空へ翔けると、逃げる海鳥げかかって、白い羽を降らした。しかし再び飼い主が呼ばないので、お城の空や、島々の翠をかすめて、やがてどこかへ見えなくなった。
巌流は、鷹の行方を見ていなかった。鷹を放つと、巌流はすぐに、身に着けている神仏のお札やら手紙の反古やら、また、岩国の叔母が、心をこめて縫って来た梵字の肌着までを ── すべて元来の自己以外の物は ── みな投げて、潮へ流してしまった。
「さっぱりした」
巌流はつぶやいた。
今の絶対的なものへ向かって行くあの気持ちには、あの人、この人と、思い出さるる、情や絆は、すべて心の曇りになると思った。
自分に勝たせようと祈ってくれる、大勢の人々の、好意も重荷であった。神仏のお札さえ、邪げと彼は思ったのである。
人間。 ── 素肌の自己。
これ一箇しか、今は、恃むもののないことを、さすがに悟っていた。
「・・・・・・・」
潮風は、無言の彼の面をふいた。その眸に ── 船島の松や雑木の翠が、刻々に、近づいていた。

吉川英治全集 『宮本武蔵 (四) 』 著・吉川 英治 発行所・講談社 ヨ リ