〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/15 (土) 砲 煙 (二)

その当日、歳三が五稜郭の城門を出たときは、まだ天地は暗かった。明治二年五月十一日である。
歳三は、馬上。
従う者はわずか五十人である。榎本軍のなかで最強の洋式訓練隊といわれた旧仙台藩の額兵隊に、旧幕府の伝習士官隊のなかからそれぞれ一個分隊を引き抜いただけであった。
この無謀さには実のところ、松平も驚いた。が、歳三は、
「私は少数で錐のように官軍に穴をあけて函館へ突っ込む。諸君はありったけの兵力と弾薬荷駄を率いてその穴を拡大してくれ」
と言った。
歳三は、すでにこの日、この戦場を境に近藤や沖田の許に行くことに心を決めていた。もうここ数日うかつに生きてしまえば、榎本、大鳥らと共に降伏者になることは明白だったのである。
( かれらは降れ、おれは、永い喧嘩相手だった薩長に降れるか )
と思っていた。できれば喧嘩師らしく敵陣の奥深く突入り、屍を前に向けて死にたかった。
歳三は、三門の砲車を先頭に進んだ。砲を先頭にするのは、射程の短かったころの常識である。
途中、林を通った。暗い樹陰から俄かに飛び出してきて、馬の口輪をおさえた者があった。馬丁の忠助である。
「忠助、何をしやがる」
「みなさん来ていらっしゃいます。新選組として死ぬんだ、とおっしゃています」
見ると、島田魁をはじめ、一昨夜別盃を汲んだ連中がみなそこにいる。
「帰れ、今日の戦はお前たち剣術屋の手には負えねえ」
と、馬を進めた。島田ら新選組は場側を囲むようにして駈け出した。
待ち構えたように、官軍の四斤山砲隊、艦砲が、轟々と天を震わせて射撃を始めた。
味方の五稜郭からも二十四斤の要塞砲隊、艦砲が火を噴きはじめた。歳三の隊に後続して、松平太郎、星恂太郎、中島三郎助の諸隊が続き、その曳行 (エイコウ) 山砲が、躍進しては射ちはじめた。
たちまち天地は砲煙に包まれた。
歳三のまわりに間断なく破裂しては鉄片が飛び散ったが、この男の隊はますます歩速をあげた。
途中、原始林がある。
それを駈け抜けたとき、官軍の先鋒百人ばかりに遭遇した。
敵が路上で砲の照準を開始していた。
歳三は馬腹を蹴り疾風のように走って馬上からその砲手を斬った。
そこへ新選組、額兵隊、伝習士官隊が殺到し、銃撃、白兵を交えつつ戦ううちに、松平、星、中島隊が殺到して一挙に潰走させた。
歳三は、さらに進んだ。途中、津軽兵らしい和装、洋装とりまぜた官軍に出あったが、砲三門にミニエー銃を連射して撃退し、ついに正午、函館郊外の一本木関門の手前まで来た。
官軍は主力をそこに集結し、放列、銃陣を布いてすさまじい射撃を開始した。
松平隊らの砲、銃隊も進出して展開し、
── その激闘、古今に類なし。
といわれるほどの激戦になった。
歳三は白刃を肩にかつぎ、馬上で、すさまじく指揮をしたが、戦勢は非であった。敵は歴戦の薩長がおもで、余藩の兵は予備にまわされており、一歩も退く気配がない。それにここまで来ると函館港から射ち出す艦砲射撃の命中度がいよいよ正確になり、松平太郎などは自軍の崩れるのを支えるのにむしろ必死であった。
歳三はもはや白兵突撃以外に手がないとみた。幸い、敵の左翼からの射撃が不活発なのをみて、兵を振り返った。
「おれは函館へ行く。おそらく再び五稜郭には帰るまい。世に生き飽きた者だけはついて来い」
というと、その声に引き寄せられるようにして、松平隊、星隊、中島隊からも兵が駈けつけて来てやちまち二百人になり、そのまま隊伍も組まずに敵の左翼へ吶喊を開始した。
歳三は、敵の頭上を飛び越え飛び越えして片手斬りで左右に薙ぎ倒しつつ進んだ。
鬼としか言いようがない。
そこへ官軍の予備隊が駆けつけて左翼隊の崩れが辛うじて支えられるや、逆に五稜郭軍は崩れ立った。
これ以上は、進めない。
が、ただ一騎、歳三だけが行く。悠々と硝煙の中を進んでいる。
それを諸隊が追おうとしたが、官軍の壁に押しまくられて一歩も進めない。
みな、茫然と歳三の騎馬姿を見送った。五稜郭軍だけでなく、地に伏せて射撃している官軍の将士も、自軍の中を油然と通過して行く敵将の姿に何かしら気圧される思いがして、誰も近づかず、銃口を向けることさえ忘れた。
歳三は、行く。
ついに函館市街の端の栄国橋まで来た時、地蔵町の方から駈け足で駈けつけて来た増援の長州部隊が、この見慣れぬ仏式軍服の将官を見咎め、士官が進み出て、
「いずれへ参られる」
と、問うた。
「参謀府へ行く」
歳三は、微笑すれば凄みがあるといわれたその二重瞼の眼を細めて言った。むろん、単騎斬り込むつもりであった。
「名は何と申される」
長州隊の士官は、あるいは薩摩の新任参謀でもあるのかと思ったのである。
「名か」
歳三はちょっと考えた。しかし函館政府の陸軍奉行、とはどういう訳か名乗りたくなかった。
「新選組副長土方歳三」
と言った時、官軍は白昼に竜が蛇行するのを見たほどに仰天した。
歳三は、駒を進めはじめた。
士官は兵を散開させ、射撃用意をさせた上で、なおもきいた。
「参謀府に参られるとはどういうご用件か。降伏の軍使ならば作法があるはず」
「降伏?」
歳三は馬の歩度をゆるめない。
「いま申したはずだ。新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みに行くだけよ」
あっ、と全軍、射撃姿勢をとった。
歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。
が、馬が再び地上に足をつけたとき、鞍の上の歳三の体はすさまじい音を立てて地にころがっていた。
誰も怖れて、みな、近づかなかった。
が、歳三の黒い羅紗服が血で濡れはじめたとき、はじめて長州人たちはこの敵将が死体になっていることを知った。
歳三は、死んだ。

それから六日後に五稜郭は降伏、開城した。総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人の閣僚の中で戦死したのは、歳三ただ一人であった。八人の閣僚のうち、四人まではのち赦免されて新政府に仕えている。榎本武揚、荒井郁之助、大鳥圭介、永井尚志 (玄蕃頭)
死体は、函館市内の納涼寺に葬られたが、別に、碑が同市浄土宗称名寺に鴻池の手代友次郎の手で建てられた。
肝煎りは友次郎だが、金は全市の商家から献金された。理由は、たった一つ、歳三が妙な 「善行」 を函館に残したことである。五稜郭末期のころ、大鳥の提案で函館町民から戦費を献金させようとした。
「焼け石に水」
と、歳三は反対した。
「五稜郭は亡びてもこの町は残る。一銭でも借り上げれば、暴虐の府だったという印象は後世まで消えまい」
そのひとことで、沙汰やみになった。
墓碑の戒名は広長院釈義操、俗名は土方歳三義直、で一字間違っている。しかし函館町民が建てたものは俗名は正しく義豊となっており、戒名は歳進院殿誠山義豊台居士。
会津にも藩士の中で歳三を供養した者があるらしく、有統院殿鉄心日現居士、という戒名が遺っている。
土方家では、明治二年七月、歳三の小姓市村鉄之助の来訪でその戦死を知った。翌三年、馬丁忠助が訪ねてきて戒名を知り、「歳進院殿・・・・・」 の方を位牌にして供養した。
市村鉄之助の来訪は劇的だったらしい。
雨中、乞食の風体で武州日野宿はずれ石田村の土方家の門前に立った。当時、函館の賊軍の詮議がやかましいという風評があったため、こういう姿で忍んで来たのであろう。
「お仏壇を拝ませていただきたい」
と言い、通してやると、
「隊長。 ── 」
と叫びかけたきり、一時間ほど突っ伏して泣いていたという。
土方家と佐藤家では、鉄之助を三年ほどかくまってやり、世間のうわさのほとぼりも醒めたころ、近所の安西吉左衛門という者に付き添わせて故郷の大垣へ送ってやった。のち家郷を出、西南戦争で戦死した。ということは既述した。歳三の狂気が、この若者に乗り移って、ついに戊辰時代の物狂いがおさまらなかったのかもしれない。
お雪。
横浜で死んだ。
それ以外はわからない。明治十五年の青葉のころ、函館の称名寺に歳三の供養料をおさめて立ち去った小柄な婦人がある。寺僧が故人との関係をたずねると、夫人は滲み通るような微笑を浮かべた。
が、何も言わなかった。
お雪であろう。
この年の初夏は函館に日照雨 (ソバエ) が降ることが多かった。その日も、あるいはこの寺の石畳の上にあかるい雨が降っていたように思われる。

『司馬遼太郎全集 ・ 「燃えよ剣」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ