〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/14 (金) 砲 煙 (一)

その夜、亡霊を見た。
五月九日の夜五ツ、晴夜だった。歳三は戦闘からもどって、五稜郭本営の自室にいた。ふと気配に気づき、寝台から降りた。目を凝らして、かれらを見た。眼の前に人がいる。一人や二人ではない。群れていた。
「侍に怨霊なし」
と古来言われている。歳三もそう信じてきた。むかし壬生にいたころ、新徳寺の墓地に切腹した隊士の亡霊が出る、と住職が屯所に駈け込んできたことがある。
歳三は驚かなかった。
「その者、侍の根性がないに違いない。現世に怨霊を残すほど腐れ果てた未練者なら、わしが斬って捨ててあらためてあの世へ送ってやろう」
と、歳三は墓地へ行き、剣を撫して終夜、亡霊の出現を待った。ついに出なかった。
が、今この部屋の中に居る。亡霊たちは、椅子に腰をかけたり、床にあぐらをかいたり、寝そべったりしていた。
みな、京都のころの衣裳を身につけて、のんきそうな表情をしていた。
近藤が、椅子に腰を下ろしている。
沖田総司が寝ころんでひじ枕をし、こちらを見ていた。
その横に、伏見で弾で死んだ井上源三郎が、あいかわらず百姓じみた顔でぼんやりあぐらをかいて歳三を見ている。
山崎烝が、部屋の隅で鍔を入れ替えていた。そのほか、何人の同士がいたか。
(どうやら、おれは疲れているらしい)
歳三は、寝台のふちに腰を下ろして、そう思った。五月に入ってから歳三はほとんど毎日五稜郭から軽兵を率いて打って出ては、進出してくる官軍を叩き続けてきた。
不眠の夜が続いた。部屋の中にいる幻影はそのせいだろうと思った。
「どうしたのかね」
歳三は、近藤に言った。
近藤は無言で微笑った。歳三は沖田のほうに眼をやった。
「総司、相変わらず行儀がよくないな」
「疲れていますからね」
と、沖田はくるくるした眼で言った。
「お前も疲れているのか」
歳三が驚くと、沖田は沈黙した。灯明かりがとどかないが、微笑している様子である。みな、疲れてやがる、歳三は思った。思えば幕末、旗本八万騎がなお偸安 (トウアン) 怠惰の生活を送っている時、崩れ行く幕府という大屋台の 「威信」 をここにいるこれだけの人数の新選組隊士の手で支えてきた。それが歴史にどれほどの役に立ったかは、今となっては歳三にもよくわからない。しかし彼等は疲れた。亡魂となっても、疲れは残るものらしい。
歳三はそんなことをぼんやり考えている。
「歳、あす、函館の町が陥ちるよ」
近藤は、はじめて口を開き、そんな、予言とも、忠告ともつかぬ口ぶりで言った。
歳三はこの予言に驚倒すべきであったが、もう事態に驚くほどのみずみずしさがなくなっている。疲れて、心がからからに枯れ果ててしまっているようだ。
「陥ちるかね」
と、にぶい表情で言った。近藤がうなずき、
「函館の町の後ろに函館山というのがあるが、あそこは手薄のようだ。官軍はあれに密かに奇兵をのぼらせて一挙に市街を攻めるだろう。守将の永井玄蕃頭はもともと刀筆の吏 (文官) で、持ちこたえられぬ」
歳三は、面妖 (オカ) しいな、と思った。この意見はかねがね彼が榎本武揚に具申してあの山を要塞化せよと言ってきたところである。ところが、兵数も機材もなかった。
── せめて私が行こう。
と、今朝も行ったばかりである。ところが榎本は、五稜郭から歳三が居なくなるのを心細がり、許さなかった。
(なんだ、俺の意見じゃないか)
寝返りを打って寝台の上に起きあがった。軍服、長靴のまま、まどろんでいたようであった。
( 夢か。 ── )
歳三は、寝台をおりて部屋をうろうろ歩いた。確かにたった今近藤がが坐っていた椅子がある。さらに沖田が寝そべっていた床のあたりに歳三はしゃがんだ。
床をなでた。
妙に、人肌の温かみが残っている。
( 総司のやつ、来やがったのかな )
歳三はそこへ、ごろりと寝そべってみた。肘枕をし、沖田とそっくりの真似をしてみた。

それから半刻ばかりあと、扉のノブをまわす音がして、立川主税 (タチカワ チカラ) が入ってきた。立川は甲州戦争のころに加盟してきた甲斐郷士で、維新後は鷹林 (タカバヤシ) 巨海と名乗って頭を丸め、僧になり、山梨県東山梨郡春日居村の地蔵院の住職になって世を送った。歳三が 「歳進院殿誠山豊大居士」 になってしまった後、その菩提を生涯弔ったのが、この巨海和尚である。
「どうなされました」
と、立川主税が驚いて歳三をゆりおこした。歳三はさっきの沖田とそっくりの姿勢で再び眠りこけていたのである。
「総司のやつが来たよ。近藤も、井上も、山崎も。・・・・」
と、歳三は身を起こしてあぐらをかくなり、ひどく朗らかな声で言った。
立川主税は、気でも狂ったかと思ったらしい。平素の歳三とはまるで違う表情だったからである。
歳三は、このあと、新選組の生き残り隊士を呼ぶように命じた。
みな、来た。馬丁の沢忠助も来た。みなといっても、十二、三人である。その中で京都以来の最古参というのは旧新選組伍長の島田魁、同尾関政一郎 (泉) ほか二、三人で、あとは伏見微募、甲州微募、流山微募といった連中だった。
それぞれ、歩兵大隊の各級指揮官をしている。
「酒でも飲もうと思った」
と、歳三は床の上に座布団を一枚ずつ敷かせ、肴はするめだけで酒宴を張った。
「どういうおつもりの宴です」
「気紛れだよ」
歳三は、何も言わなかった。ただひどく上機嫌で、かえってそれがみなを気味悪がらせた。
一同にその意味がわかったのは、翌朝になってからである。兵営の掲示板に、昨夜会同した連中がいっせいに移動になっていた。全員が、総裁榎本武揚付になっている。
この日、函館が陥ちた。
永井玄蕃頭ら敗兵が五稜郭へ逃げ込んできた。もはや残された拠点は、弁天崎砲台、千代ケ岱砲台、それに本営の五稜郭のみであった。
「土方さん、貴方の予言していたとおりでした。敵は函館山から来たそうです」
と、榎本は蒼い顔で言った。歳三はどう考えても不審だった。自分は確かに予言していたが、日まで予言しなかった。どうも昨夜の夢は夢ではなく、近藤らがわざわざそれを言いに来てくれたのかも知れない。
「明日、函館へ行きましょう」
と、歳三は言った。
榎本は、妙な顔をした。もはや市街は官軍で充満しているではないか。
軍議が開かれた。
榎本、大島は籠城を主張した。歳三はあいかわらず黙っていたが、副総裁の松平太郎がしつこく意見を求めたので、ぽつりと、
「私は出戦しますよ」
とだけ言った。陸軍奉行大鳥圭介が、歳三への悪感情をむき出した顔で言った。
「それでは土方君、意見にならない。ここは軍議の席だ。君がどうする、というのをきいているのではなく、我々はどうすべきかという相談をしている」
のちに外交官になった男だけに、どんな場合でも論理の明晰な男だった。
「君は」
と、歳三は言った。
「駕城説をとっている。駕城というのは援軍を待つためにやるものだ。われわれは日本のどこに味方をもっている。この場合、軍議の余地などはない、出戦以外には。 ── 」
皮肉をこめていった。駕城は、降伏の予備行動ではないかと歳三は疑っているのだ。
松平太郎、星恂太郎らは歳三の同調し、翌未明を期して函館奪還作戦をおこすことになった。
偶然、官軍参謀府でもこの日をもて五稜郭総攻撃の日と決めていた。

『司馬遼太郎全集 ・ 「燃えよ剣」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ