〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/15 (土) 新選組・近藤勇の世を辞す詩

新選組は尊皇攘夷の志士たちを震撼せしめた、幕末最強を誇る戦闘集団であった。彼等の行動は、今にして思えば、時の流れに逆行して生きた、あだ花のようなものであったろう。だが、あのはかなさが時代を超えて、われわれの目になんと美しく映じることか。
江戸市谷の天然理心流・試衛館の近藤周助の養子となった近藤勇のもとに、沖田総司や永倉新八、藤堂平助が入り込み、また日野で天然理心流の道を励んでいた土方や井上源三郎らも出入りするようになった。
文久2年 (1862)、将軍家茂の上洛にさいし、警護のために江戸の浪士を集めることになった。近藤ら試衛館道場の者たちも即座に応募した。彼等浪士隊は、京都の壬生周辺に分宿したことから「壬生浪人」と称された。
やがて、近藤や芹沢鴨らは京都守護職の任にあった今津公松平容保に京都の治安維持の傭兵とされるにいたる。こうして、近藤と芹沢は壬生浪士隊の局長に就任し、副長に土方歳三と山南敬介、沖田総司と平山五郎が副長助勤となった。
だが京都の治安に当たるはずの芹沢一派が、商家から金子を徴収したり、乱暴狼藉をはたらき始め、今津候から新選組の隊名を授けられたものの、近藤らは網紀粛正のうえから芹沢を暗殺するにいたった。
近藤は隊の規律を守るため、厳しい法度を設けていた。新選組局中法度の第一条は「士道に背ク間敷事」である。近藤は、あくまでも武士であれ、と説いたのである。脱走者や規律に違反した者には、過酷なまでの仕置きを行った。西本願寺移転問題で、近藤と意見を異にして脱走した山南敬介も切腹させられた。そうしたことが、ややもすると近藤や土方を冷酷非情な人間と思わせるのである。
近藤は、池田屋事件、禁門の変、御陵衛士・伊東甲子太郎の暗殺、鳥羽伏見の戦いと、まさに激動の世界に身を置いてきた。そして、鳥羽伏見の戦いで負傷し、江戸へ帰った。
傷が癒えると、冑陽鎮撫隊を組織して、甲府へ向かった。慶応4年 (1868) 3月1日のことである。甲府城を占拠して幕府軍の立て直しを計ったのだ。だが、板垣退助の率いる官軍がいち早く甲府城に入ってしまい、さらに勝沼の戦いで破れ、再び江戸へ逃げ帰るにいたる。近藤は改めて兵団を組織して流山へ入った。
流山にいる幕軍の噂を聞いた官軍は、流山へと急いだ。東山道軍鎮撫総督府副参謀の有馬藤太(薩摩藩)が、流山にいる幕軍の頭目に面会を申し入れた。その頭目は「大久保大和」と名乗っていた。有馬は近藤の顔を知っていたものの、その場は「大久保大和」として近藤を板橋宿の東山道軍本営に連行する旨を申し入れると、近藤は素直に従った。
取調べに対して、近藤はあくまでも「大久保大和」であることを主張したが、土佐藩の加納道之助鵬雄から「近藤さん、久しぶり」と声をかけられ、近藤勇であることが判明した。
近藤の斬首が決定した。斬首が決定した背景には、坂本龍馬・中岡慎太郎を殺害した元凶は新撰組だという説が根強く流れていたからである。
近藤は、死を覚悟したらしく、獄中で二篇の七言絶句を作った。

孤軍援絶作俘囚

顧念君恩涙更流

一片丹哀能殉節

雎陽千古是吾儔

ぐんえんえてしゅう

かへりみ君恩くんおんおもへば涙更なみださらなが

一片いっぺん丹哀たんあいせつじゅん

すいようせんこれわがともがら

この詩には、援軍がなくて捕らわれの身となった無念さを抱きながら、あくまでも君見たいする忠節に殉じようとする近藤の心境が吐露されている。「君」とは、徳川将軍であり、会津候であろう。雎陽は中国の昔の県名で、河南省商岡県の南。唐の忠臣張巡が安禄山と戦った所。

靡他今日複何言

取義捨生吾所尊

快受電光三尺剣

只将一死報君恩

ほかなび なに はん

せいつるはとふとところ

ころよけん電光でんこう三尺さんじゃくけん

只将ただまさいっをもって君恩くんおんむくいん
死を厳粛に受け止めようとする近藤の澄み切った心境がうかがえて悲しい。その死も、「君恩」に報いるためなのである。
近藤は、4月25日、横倉喜三次の太刀取りで斬首された。斬首の前に近藤は、横倉の日頃の厚恩を謝し、佩刀を贈ったという。三十五歳の生涯であった。近藤の盟友土方歳三は、明治2年5月12日、新政府軍と函館で戦い、壮烈場最期を遂げた。
新選組隊士の行動は、やがては滅びてゆくものであった。しかし、彼等は自分達の行動が決して間違っているとは考えていなかったことだろう。幕府に対してあくまでも忠節無比であった。だからこそ命を賭して戦い続けたのである。新選ん組の時代からすでに百年以上の歳月が流れたけれど、彼等を追慕する声が衰えないのは、散るものの美しさを感じるからであろうか。
社団法人日本詩吟学院岳風会「吟 道」・平成十五年十月号
相模女子大学教 授志村有弘・著 より