ついに来た。
偶然三日である、この日近藤は流山の官軍陣地に自ら行き、佩刀を渡してしまっている。
お光はそういうことは知らない。この朝あわただしく駈け込んで来て、
「総司さん、私どもは庄内へ行きます」
と言った。
総司の微笑が、急に消えた。
が、いつものこの若者の表情に戻り、
「そうですか」
と布団の中から手をさしのばした。おそろしいほどに痩せていた。
お光は、その手を見た。
どういう意味だか、とっさに呑み込めなかったのである。
総司は、姉にその手を握ってもらいたかったのだ。
が、お光は動顛していた。
「江戸に残る弟は、この先どうなるのか。
お光は夢中になってそのあたりを片づけていた。手と体を動かしているだけである。
お金だけが頼りだと思い、林太郎に渡ったお手当ての殆どを掃除の布団の下に差し入れた。
「俄かのことだから」
と、お光は泣きながら、総司の身のまわりのものを大きな柳行李に詰めている。詰めてどうなるものでもないのに、その作業にだけ熱中した。総司が京都で使った菊一文字の佩刀もその中に収めた。
総司はそういう姉を、枕の上からじっと見ている。
(刀まで納って、どういうつもりだろう)
姉のあわてぶりがおかしかったのか、顔は笑わず、肩だけすぼめた。
お光には時間の余裕がないらしい。このまますぐ走って藩邸のお長屋に戻り、夫と共に出発しなけばならない様子だった。
「総司さん、ここに下着や下帯の新しいのを重ねておきます。もうお洗濯はしてあげられないけれど、肌身のものだけはいつも綺麗にしておくのですよ」
「ええ」
総司は、少年のようにうなずいた。
「良人 (ウチ) 人は、庄内に行くと戦になるかもしれない、と言っています」
「庄内藩の士風というのは剛毅なものだそうですね。国元の藩士は雨天でも傘を用いぬ、というのが自慢だというのは本当ですか。子供のころそんな話を聞いたことがあるけれど、それが本当ならずいぶん強情者ぞろいらしい」
お光は、話に乗ってこない。
「鶴岡のお城下では羽黒山から朝日が出るそうですよ。それがとても綺麗だと聞いています。しかし江戸からずいぶん遠いなあ。朝日というものはあんな北の国でも東から昇るのだと思うと、おかしくなる」
「まあ、この人は」
お光は、やっと気持ちがほぐれたらしい。
「もう雪は解けているでしょうね。山なんぞにはまだ残っているかもしれない。いずれにしても姉さんの足ではたいへんだな」
「総司さんはご自分の心配だけをしていればいいのです」
「良くなれば庄内へ行きますよ。西から薩摩の兵が来れば、私一人で六十里越えの尾国峠 (オグニトウゲ)
で防いでやりますよ。そのときは、近藤さんと土方さんも連れてゆきますよ」
「ホホ・・・・・」
この弟と話していると、なんだかこちらまでおかしくなってしまう。
「近藤さんや土方さんは今ごろ何をしているかな。江戸のまわりは官軍で充満していると聞いているけれど、流山は大丈夫でしょうね」
「あの人たちはお大丈夫ですものね」
と、お光は妙なことを言った。
総司は笑った。
「そうなんだ、江戸にいたころの近藤さんは、到来物の鯛を食べて、骨まで炙って、こんなもの噛み砕くんだと言って、みんな噛んで食べてしまいましたよ。あの時は驚いたな」
「大きなお口ですからね」
お光も噴きだした。
「そうそう。あんな大きな口の人は日本中にいないでしょう。京都で酒宴をした時など、土方さんはあれで案外、端唄の一つもうたうんですよ。ところが近藤さんの芸ときたら、拳固を口の中に入れたり出したりするだけで、それが芸なんです」
「まあ」
お光は、明るくなった。
「総司さの芸は?」
「私は芸なし。・・・・」
「お父さんゆずりですものね」
「遠いな」
と、総司は不意に言った。
「何が?」
「お父さんの顔が、私は五つぐらいの時だったから、うっすらとしか覚えていない。ああいうものはどうなんでしょう」
「え?」
「死ねば向こうで会えるものかな」
「ばかね」
お光はこのとき、やっと総司が布団の外に右手を出している意味がわかった。
「総司さん、風邪ひきますよ」
と言いながら、そっと握り、布団の中に入れてやった。
「早く元気になるのよ。よくなってお嫁さんを貰わなければ」
総司は返事をしなかった。
枕の上で、ただ微笑っていた。京で、芸州藩邸の隣の町医の娘に、淡い恋を覚えたことがある。つに実らずにおわった。
( 妙なものだな )
総司は、梁を見た。考えている。くだらぬことだ。
── 死ねば。
と総司は考えている。
( 誰が香華をあげてくれるのだっろう )
妙に気になる。くだらぬことだ、と思いつつ、そういう人を残しておかなかった自分の人生が、ひどくはかないもののように思えてきた。
沖田総司は、それから一月あまりたった慶応四年五月三十日、看取られる人もなくこの納屋の中で、死んだ。
死は、突如きたらしい。縁側に這い出ていた。
そのまま、突っ伏せていた。菊一文字の佩刀を抱いていた。
沖田林太郎家に伝わっている伝説では、いつも庭に来る黒い猫を斬ろうとしたのだと言う。
斬れずに、死んだ。
墓は、沖田家の菩提寺である麻布桜田町浄土宗専称寺にある。戒名は、賢光院仁誉明道居士。永代祠堂料金五両。
── のちに江戸に戻ってきたお光と林太郎が納めたものである。
のち墓石が朽ちたため、昭和十三年、お光の孫沖田要氏の手で建てかえられ、おなじく永代祠堂金二百円。当時としては大金といっていい。
お光の沖田家の現在の当主は、東京都立川市羽衣町三ノ十六沖田勝芳氏である。そこに総司の短い生涯を文章にしたものが遺されている。誰が書いたものか。
|