〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/14 (金) 沖 田 総 司 (一)

いま千駄ケ谷で植木屋といえば、ほんの二、三軒、祖父何代かの店が残っているぐらいだというが、当時はこの界隈は植木屋が多い。
小旗本にならんで、五百坪、七百坪といった樹園がある。
沖田総司が養生している平五郎の樹園は内藤駿河守屋敷 (現在新宿御苑) の南にあり、家の北側に水車が動いている。
沖田は納屋に起居していた。
(おれは死ぬのか)
とは沖田は考えたこともなかった。よほど生命が明るくできている生まれつきなのかも知れない。
もう医者にはかかっていない。
ときどき旧幕府典医頭 (テンイノカミ) 松本良順が門人を寄越して薬を届けてくれるが、それもだんだん遠のいていた。
おもに、歳三が置いて行った土方家の家伝薬 「虚労散」 というあやしげな結核治療薬ばかり服 (ノ) んでいる。
「効く」
歳三が言い切った薬である。歳三の口からそう断定されるとなにやら効きそうな気がして、良順の西洋医術による処方の薬をこっそり捨てることがあっても、これだけは服んでいた。
姉のお光が、三日にあげず来てくれては、介抱してくれた。
お光は、来るたびに獣肉屋から買ってきた猪肉などを庭先で煮てくれた。
「お汁も飲むのですよ」
と、つきっきりで総司が食べるのを見守っている。目をはなすと、捨てかねないからだ。
「くさいなあ」
と、沖田は呑み込むようにして咽喉に入れた。
獣肉は苦手だった。
「総司さん、きっと癒 (ナオ) らなきゃいけませんよ。沖田の家は林太郎が継いだからといっても、血筋はあなた一人なんですから」
「驚いたな」
総司は底抜けの明るさで小首をかしげてしまう。
「なにがです」
お光もつい吊りこまれて微笑 (ワラ) ってしまうのだ。
「なにがって、姉さんのしの口ぶりがですよ。私の病気はそんな大そうなものじゃないと思うんだがな」
「あれだ」
総司は噴きだして、
「姉さんは取り越し苦労ばかりしているくせに、ちょっとも理屈にあわない。たいした病気でないとわかっていたら、そんなにご心配なさることはありませんよ」
「そうでしょうか」
「癒ります、きっと」
人事のように言う。本気でそう思っているのかどうか、この若者の心の底だけはわかりにくい。
もう食欲は全くないといってよかったし、無理をして食べても消化が十分でない。
「腸にきている」
と、松本良順は、林太郎とお光に言った。
腸に来れば万に一つ癒る見込みはない。
大坂から江戸へもどる富士山丸のなかで、素人の近藤でさえ、
(総司は永くあるまい)
と歳三に言った。そのくせ富士山丸の中では冗談ばかりを言って笑い、 「笑うとあとで咳が出るので困る」 と自分でもてあましていた。
江戸に帰ってから近藤は、妻のおつね (江戸開城後は、江戸府外中野村本郷請願寺に疎開) に、
── あんあに生死というものに悟りきったやつも珍しい。
と言ったが、修業で得たわけではなく天性なのであろう。
総司はこの時二十五歳である
総司が起居したこの千駄ケ谷池橋尻の植木屋平五郎方の納谷、といっても厳密には納屋ではなく、改造して畳建具なども入っていた。
明かり障子は南面しているから日当りはいい。
すこし気分がいいと障子を開けてぼんやり外を見ている。
景色はよくない。むこう二十町ばかりは百姓地で大根などが植わっている。
身のまわりの世話をしている老婆が、
「よくお倦きになりませんね」
とあきれるほど、長い時間、同じ姿勢で見ている。
老婆は、この青年が、かって京洛の浪士を震え上がらせた新選組の沖田総司であることは知らされていない。
「井上宗次郎」
というなにしてある。もし沖田だとわかれば、官軍がうるさい。総司は療養というより潜伏している、という方が正確だった。
老婆も、身元は知っている。庄内藩士沖田林太郎の義弟、ということであった。
お光も老婆には、
── 藩邸のお長屋ですと、病気が病気ですから、人に嫌がられますので。
といってある。筋の通った話である。
ちなみに、お光の夫林太郎はいつかも触れたが、八王子千人同心井上松五郎家の出で、やはり近藤の父周斎の門人であり、天然無心流の免許を得、入り婿の形で沖田姓を継いだ。
沖田家の嫡子総司がまだ幼かったからである。
林太郎は、総司らが京へのぼったあと江戸で新徴組隊士となり、新徴組が幕府の手から離れた後、いまは庄内藩に属し、藩邸のお長屋に住んでいる。男の子があり、芳次郎といった。その子が要 (カナメ) 、この家系がいま立川市に残っている。以上余談。
慶応四年二月下旬、庄内藩主酒井忠篤が江戸を引き払って帰国した。
あとに家老が残り、江戸屋敷の処分や残務整理をしている。
沖田林太郎は残留組になったが、いずれは出羽庄内へ行かねばならないであろう。
その江戸引き揚げの時が総司との生別の日になる、とお光はその日の来るのを怖れていた。

『司馬遼太郎全集 ・ 「燃えよ剣」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ