統帥権がかっての日本を滅ぼしたことについて書いている。
国語解釈から述べると、この漢字表現は、厳つい。
統帥とは、要するに先に述べたように 、 「軍隊を統べ率いること」 である。英語では統帥とは指揮 (コマンド)
とうにすぎず、統帥権も最高の指揮権というだけのことである。
英国やアメリカでも当然ながら統帥権は国家元首に属してきた。むろん統帥権は文民で統御される。
軍は強力な殺傷力を保持しているという意味で、猛獣に例えてもいい。戦前、その統帥機能を、おなじ猛獣の軍人が掌握した。しかも神聖権として、他から嘴が入れば、
「統帥干犯」 として恫喝した。猛獣という比喩については注釈する。日本陸軍の軍人はみずからしばしば貔貅
(ヒキュウ) (豼貅) と美称した。貔貅とは中国の伝説 (
『史記』 五帝紀) にある想像上の猛獣である。形は虎あるいは熊に似、これを伝説時代の黄帝が戦いに用いたという。
明治維新早々、政府直轄軍が存在しなかったということはすでにふれた。
維新四年後、廃藩置県によって大名や武士の世が終わることになった。
この断行に際し、政府は反乱に備え、薩長土三藩に一万の兵を “献兵” させてはじめて直轄軍を持った。
ただし、この軍はすぐ崩れた。そのうちの薩摩系の軍人が、同藩の陸軍大将西郷隆盛の下野とともに軍帽を営庭の池に投げ込んで大挙鹿児島に帰ってしまったからである。明治十年、彼等が反乱
(西南戦争) をおこす。
その乱がおさまると、皇居に近い竹橋に駐営していた近衛砲兵第一大隊の兵二百六十余人が、論功行賞の不平から反乱を起こした。大隊長などを殺し、砲を曳いて大蔵卿大隈重信邸などを襲撃した。
要するに、統帥の思想さえない猛獣達だった。
長州出身の陸軍卿山県有朋はこれに懲り、統帥の意味を明らかに統べく、西南戦争が終った直後から、 『軍人に賜はりたる勅諭』
(略称・軍人勅諭) の膳立てにとりかかった。
反対者もいた。
御雇外国人G・E・ボアソナードが、そうだった。
パリ大学助教授だったが、明治六 (1873) 年来日し、以後、二十二年にわたって日本の法典整備に力を尽くした人である。
「法体系とまぎらわしくなるのではないか」
と、不安がった。
が、統帥の何たるかを解していない危険な軍隊 ─ 貔貅 ─ を抱えている山県としては、それどころではなかった。
勅諭は、西周 (ニシアマネ) が起草した。井上毅が全文を検討し、福地源一郎が兵にもわかるように文章をやわらかくした。公布は明治十五
(1882) 年であった。
冒頭に、 「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」 とある。統帥権の歴史的根拠を述べたのである。
この勅諭の一文がボアソナードが案じたように、のち美濃部達吉 (東大)
や佐々木惣一 (京大) のいわば政府公認の憲法解釈学に暗黙の掣肘
(セイチュウ) を加えたと言っていい。この二人の解釈学では、明治憲法のもっとも近代的な要素である
「三権分立」 の説明の後に、小活字で注を加え、 「ただしわが国の慣習として統帥権というものがある」 とした。慣習とは、勅諭をさしたものにちがいない。
むろん、直後の冒頭は歴史的事実に反する。この点、勅諭でも、中世以降、兵権が武士の手に移ったことが述べられている。
維新後、古制にもどった、とする。その上で励声一番、 「朕は汝軍人の大元帥なるそ」 という。この一言で、統帥権の所在が明快になったといっていい。
後半は、倫理的な規定が述べられている。忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五ヵ条についてである。とくに信義については暗に西郷と薩摩系軍人の関係を踏まえ、それらは
「小節の信義」 「私情の信義」 であるとする。
武勇のくだりでは、前掲の貔貅という言葉こそ用いられていないが、悪の猛獣として 「豺狼 (サイロウ)
」 がつかわれている。
「由 (ヨシ) なき勇を好みて猛威を振ひたらは果 (ハテ)
は世人 (ヨノヒト) も忌 (イミ)
嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ」
さらに、 「世論 (セイロン) に惑 (マド)
」 うな、 「政治に拘 (カカ) 」 わるな、とも諭されている。昭和陸軍になって陸軍は、
「勅諭」 でいう “豺狼” になった。ときにクデター同然の騒ぎを起こして白昼重臣達を殺し、統帥権を振りかざすてついに国家をも壟断
(ロウダン) した。これは訓戒の公然たる無視といっていい。
なお、明治二十二 (1889) 年に発布された憲法にも、天皇が陸海軍を統帥するという一条がもうけられた。これはたいていの国の元首の機能とかわらない。
ともかくも、 『軍人勅諭』および憲法による日本陸軍のあり方や機能は、明治時代いっぱいは世界史の常識から見ても、妥当に作動した。このことは、元老の山県有朋や伊藤博文が健在だったということと無縁ではない。
少なくとも、明治二十年以後、明治時代いっぱいは、統帥権が他の国家機能 (政府や議会)
から超越するなどという魔術的解釈は存在しなかった。
統帥権には、
「帷幄 (イアク)上奏」
という特権が統帥機関 (陸軍は参謀本部、海軍は軍司令部) に与えられていた。
帷幄とは、 『韓非子』 にも出てくる古い漢語で、野戦用のテントのことをいう。統帥に関する作戦上の秘密は、陸軍の場合、参謀総長が、首相などを経ず、じかに天皇に上奏するということである。参謀本部制は、元来ドイツの制度である。それをまねて日本に設けたのは山県有朋で、明治十一
(1878) 年に発足した。発足早々、ドイツ風に帷幄上奏権も設けられた。
作戦は機密を要する。いちいち政府や議会に漏らすわけにもいかないからこれも妥当な権能と言っていい。ただ、この権能までが、昭和になると、平時の軍備についても適用されるという拡大解釈がなされるようになった。
首相浜口雄幸が、その為に右翼のテロに遭った。
浜口は財政家で、重厚かつ清廉な人格を持ち、その魁偉 (カイイ)
な容貌から “ライオン宰相” などと言われた。彼は軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押し切り、昭和五
(1930) 年四月、ロンドン海軍軍縮条約に調印した。右翼や野党の政友会は浜口を、
「統帥権干犯」 として糾弾した。
干犯などという酒精分の強い言葉は、法律用語にはない。統帥権に関してのみ、この異様な言葉が使われたこと自体、昭和軍人が規定した統帥権の不安定さと、彼等の
“豺狼” としての気勢 (キオ) いをよく表している。
干犯という言葉は、右翼の北一輝 (キタ イッキ) が造語したと言われている
(ただし、明治十五年の陸軍省達の第十六号に “抵抗干犯” という用例がある。漢文の古典語にはない)
。
浜口はこの年の十一月十四日、東京駅で東京駅で右翼に狙撃され、翌年、死去した。むろん、殺された “統帥権干犯者”
が、統帥権主義者よりも、はるかに愛国者であったことは言うまでもない。
以後、昭和史は滅亡に向かってころがって行く。
このころから、統帥権は、無限・無謬・神聖という神韻を帯びはじめる。他の三権 (立法・行政・四方)
から独立するばかりか、超越すると考えられはじめた。
さらには、三権からの容喙 (ヨウカイ) も許さなかった。もう一つ言えば国際紛争や戦争をおこすことについても他の国政機関に対し、帷幄上奏権があるために秘密にそれをおこすことが出来た。となれば、日本国の胎内に別の国家
─ 統帥権日本 ─ ができたともいえる。
しかも統帥機能の長 (たとえば参謀総長) は、首相ならびに国務大臣と同様、天皇に対し輔弼
(ホヒツ) の責任を持つ。天皇は、憲法上、無答責である。
である以上、統帥機関は、何をやろうと自由になった。満州事変、日中事変、ノモハン事変など、すべて統帥権の発動であり、首相以下はあとで知って驚くだけの滑稽な存在になった。それらの戦争状態を止めることすら出来なくなった。
“干犯” になるからである。
統帥権の憲法上の解釈については、大将末年ごろから、議会その他で少しばかりは論議された。
は、十分に論議がおこなわれないまま、軍の解釈どおりになったのは、昭和十 (1835) 年の美濃部事件によるといっていい。憲法学者美濃部達吉が
“天皇機関説” の学説を持つとして右翼の攻撃を受け、議会によって糾弾された事件である。結果として著書が発禁処分にされ、当人は貴族院議員を辞職した。
美濃部学説は、当時の世界ではごく常識的なもので、憲法を持つ法治国家は元首も法の下にある、というだけのことであった。
それが、議会で否定 (議会が否定するなど滑稽なことだが) されることによって、以後、敗戦まで日本は
“統帥権” 国家になった。こんな馬鹿な時代は、長い日本史にはない。
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