〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/11 (火) 統 帥 権 (三)

大豆汁を煮れば表面に蛋白の膜ができる、天保年間 (1830〜44) に、すでに幕藩体制は膜にすぎないという思想が、地下の読書層である庄屋や大百姓にまで広がっていた。
たとえば土佐藩の農村でのことである。天保十二 (1841) 年十月、土佐藩の藩領の中央部の五つの郡の庄屋たちが密かに集まり、秘密同盟を結んだ。
この藩では他藩のように庄屋は必ずしも冨農ではなく、郷士層から藩によって選任された下級官吏だった。
土佐郷士は、藩士とは名のみの軽格、農民に毛のはえた程度の武士である。幕末の土佐藩の革命家や明治の土佐名物というべき自由民権家は多くはこの層から出た。
上士は農民を切り捨て御免にできる。その被害を受けそうになった農民を、郷士である庄屋はかくまって引き渡さないというのが、右の申し合わせの骨子である。その思想的根拠も述べられている。
一君万民思想というものであった。
天皇という、当時、無か空かに近かった一点を、架空ながら論理の頂点に戴くことによって、浮世は平等になる。将軍も大名も上士も一瞬にして絵空事になるのである。
さらには、農民こそ上古から連続する存在で、従って大名の領民というよりも本質的には天皇の民であるとする。
そういう農民を預かっている庄屋は、理論の上での天皇の官なのだというのである。

一君万民という平等思想は、幕末、この藩だけでなく多くの人々に共有された。
江戸体制の基本思想は、忠ということである。
革命化した藩士たちにとって藩主 (大名) の主君である将軍を討つ (倒幕運動) のは、藩主に不忠を強いることになる。また藩をつぶすこと (明治四年の廃藩置県) も藩主への不忠になる。これらの矛盾を一挙に解決できる思想が、一君万民思想であった。
とくに廃藩置県については、当時の英国公使H・S・バークスが、
「大変な流血を伴うだろう」
と予想したが、結果は容易だった。その秘密は、一君万民思想にあった。

話が外れた。
ここでの主題は、軍の統帥についてである。
幼少の天皇 (明治天皇) を擁する新政府は兵を持たなかった。世界史上、軍隊を持たない革命政権は、ほかに例がない。
「一君万民」
は平等思想であって、革命的な諸藩の兵さえ、天皇が自分の主君であるとは思っていなかった。げんに食禄もいただいていなかったのである。
戊辰戦争が終ると、主力をなくした薩長土三藩の藩兵は、長州の小部隊を残して国許に帰ったしまった。

その間、廃藩置県までの四年、新政府は、旧徳川家の直轄領を領地にして食いつないでいた。
徳川家の直轄領は奪ったものの、諸藩の領地や士民は手つかずだった。もとの大名が “藩知事” という名のもとで在籍し、日本中は依然として割拠の形をとっていた。
それを取り上げ、同時に士族を名実ともに無くすというのが、廃藩置県だった。

その挙にあたって、新政府は慎重だった。先ず東京に一定の兵力を集めた。
薩長土三藩が、あわせて一万の藩兵を献上した。当時、獻兵と呼ばれた。やがて御親兵と呼ばれ、ほどなく近衛と改称された。
政府は近衛兵たちにフランス式の軍帽と軍服を着せたが、中身は江戸時代の武士で、天皇の親兵であるという実感を持たなかった。
廃藩置県と新軍制の推進者の一人であった長州の山県有朋は、この前に日本橋の小網 (コアミ) 町の薩摩の西郷隆盛を訪ね、
「薩摩出身の御親兵は、一朝事あるときは、たとえ相手が薩摩守 (薩摩藩の当主島津氏) であっても弓を引く決意が必要です。それでよろしいでしょうか」
と年を押し、西郷の同意を得た。
西郷が承知したことで、廃藩置県は七月に実施された。諸旧藩の旧藩主達はあらかじめ東京に集められ、貴族として十分以上の経済的裏付けが保証された。
この成功によって近衛 (親兵) の役割は終ったが、そのまま東京にとどめられ、翌明治五年には、陸軍の母体になった。

しかし、一方においては、山県有朋を中心に、西欧ふうの徴兵制の施行が進められていた。山県は、庶民から徴兵された兵を、国軍の中心にするつもりだった。
となれば、近衛は浮き上がる。当然、彼等と同階層の満天下三百万の士族も反対する。
近衛の兵営は、不満で充満した。その近衛の総指揮官 (近衛都督 (コノエトトク) ) の職に、徴兵制をすすめている長州出身の山形有朋中将が就いたことで、爆発寸前になった。
山県は自分の不評判を感じ、すぐ近衛都督をやめ、その職を薩摩の西郷隆盛にゆずった。西郷は、陸軍元帥 (翌年陸軍大将) の位を持ちつつ、近衛を統轄した。
この間、徴兵制が進捗 (シンチョク) し、全国にいくつかの鎮台 (のちの師団) が設けられた。薩摩出身の近衛少将桐野利秋などは、
「かれ (山県) 土百姓らを集めて人形を作る、果たして何の益あらんや」
と、言ったりした。

翌明治六年、中将山県有朋は、陸軍卿 (のちの陸軍大臣) になり、いよいよ徴兵と鎮台の整備に専念した。
この時期、西郷は政府に諸事不満で、大将になった明治六年の十月、にわかに辞表を出し、誰にも告げずに国許に帰った。
政府はこの維新最大の功労者の退隠に狼狽した。とりあえず、西郷における参議・近衛都督の職についての辞表は受理したものの、陸軍大将職の返上についての辞表は 「旧の如く」 として受理せず、郷里に帰った西郷に対し、陸軍大将の給料を送りつづけた。
西郷はこの給料を私学校設立に当てたばかりか、のち西南戦争で反乱軍の首魁になった時、陸軍大将の軍服を着て軍を進めた。統帥という立場からすれば、これほど珍妙なことはなかった。

西郷の帰山の報が伝わるや、少将桐野、同篠原国幹 (クニモト) 以下薩摩系の将校の殆どが辞表を出し、土佐系の一部も雷同した。その数は、百十数人にのぼった。辞職者たちは大挙営門を出るとき、営門のわきの池に帽子 (帽子のてっぺんが赤かった) をほうりこんだ。天皇の統帥権など、あったものではなかった。

軍人は兵器を擁している。自然、このため、軍人が政治に関与すべきでないことは、先進黌では常識だった。このことについて明快な思想を持っていたのは、長州出身の元勲木戸孝允だけだったかもしれない。
「元来、士官之兎 (ト) や角喋々 (カクテフテフ) 申候は、国之恥 (ハジ) 也。其人之恥也」 。
さらに、 「兵隊廟議を論じ、気随に辞表を出」 したことは国の乱れであるとも書いた。

結局、統帥の乱れが、明治十 (1877) 年の西南戦争という未曽有の内乱を引き起こした。
その乱れは、隔世遺伝のように、昭和の陸軍に遺伝した。
昭和陸軍軍閥は、昭和六、七年以後爆発を続け、ついに国を滅ぼしたが、その出発は明治初年の薩摩系近衛兵の政治化にあったといっていい。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (二) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ