〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/10 (月) 統 帥 権 (二)

まず、幕末における統帥権についてである。
幕末とは、多分に俗称である。時間的には、嘉永六年のペリー・ショックから、十五年間をさす。
それまでの江戸時代は、駘蕩とした時が流れていた。幕末となると、形相が変わる。石垣のように堅牢だった江戸時代的な秩序は、この時代に崩れる。

世論が二つにわかれた。
初期にあっては、ペリーの開国要求に屈して国是の鎖国を止めるというのは、外交交渉ではなく城下之盟 (ジョウカノチカイ) であるとされた。 (城下之盟とは城壁の下まで攻め込まれて講和を結ぶこと。屈辱の講和。 『春秋左氏伝』 ) 。この大げさすぎる激情を、主として在野人が共有した。
珍妙なのは、その在野人たちは、鎖国こそ神代からの祖法であると信じていたことである。むろん鎖国は僅々(キンキン) 二百数十年前に徳川幕府がやったことにすぎない。彼等の日本史知識の貧困さがうかがえる。

江戸時代の京都はさびしかった。
ところが、幕末、一変した。諸国の鎖国攘夷派が京都に集まり、公家たちの屋敷に出入りして論壇を形成したために、京都が開国に反対する在野勢力の一大艶淵叢 (エンソウ) になった。

幕府は、京都御所を擁する在野勢力から “朝命” をもって攘夷をうながされた。つまりは対米戦争をやれということであった。
幕府は、一国を保持する責任政権である。
幕府は、矛盾に苦しんだ。 “攘夷などできない” と公然と言えば、兵馬の権をゆだねられている征夷大将軍 (将軍の正称) として鼎の軽重を問われる。将軍の称号は夷 (外国勢力) を征するという意味なのである。

鎖国攘夷派は、幕末の初期でこそ純粋だったが、やがて反幕の政略として鎖国攘夷論をつかいはじめる。
ついでながらこの種の在野言論の政治的詐術はその後風土化し、大変洋戦争のあとの反政府運動にも頻用された。
一例をあげると、昭和二十六 (1951) 年を頂点に言論界や野党の間で轟々ととなえられた “全面講和” 騒ぎがある。時の吉田内閣が、アメリカを中心とした連合国四十八カ国と単独講和を結ぼうとしている現実路線に対し、ソ連など社会主義国を加えて “全面とせよ” という非現実的路線を高唱するものであった。吉田茂首相は、たまたま、 “全面” に雷同した時の東大総長に対し、議会で、
「曲学阿世の徒」
と、古風かつ痛烈すぎる表現で諷した。おそらく幕末以来、風土化した在野世論の型に入ることによって世に阿 (オモネ) っている、ということであったろう。

ときに、幕閣んお責任者は、大老井伊直弼であった。
剛腹な人物で、アメリカを含む五カ国修好通商条約を結ぶことで開国を断行した。
その二年後の万延元年、伊井は報復を受けた。江戸城登城の途中、桜田門外で水戸浪士らに行列を襲撃されて死ぬ。白昼、将軍の居城の門前で襲われたのである。以後、幕威は急速に衰えた。
たとえば、桜田門外の変から三年後の文久三 (1863) 年、京都に入った十四代将軍家茂 (イエモチ) の行列に対し、
「いよう、征夷大将軍!」
と、芝居の大向こうみたいに声をかけた者がいた。将軍に供奉する幕臣達はとがめだて一つせず、下を向いて屈辱と無念の涙をこらえたという。

幕末の中ほどまで、幕府・諸藩とも、正規軍を動かさなかった。 “有志” がいわば徒党として散発的に武装行動し、幕府もこれに対し新選組など警察権をつ組織を行使していた程度だった。
過激派の本山のようになり始めていた長州藩でさえ、元治元 (1864) 年七月、京都にほとんど自殺的な大乱入を敢行した程度であった。それも、表向きは陳情団という形をとった。
幕藩体制は武を原理としながらも、幕府も藩も、 “軍” という権力表現をとることをおそれた。そのことに臆病なほどだった。
長州人たちは、右の京都乱入で市街戦で破れた。蛤御門ノ変である。
ときに長州藩は、攘夷書生団に主導されていた。
ついでながら長州藩毛利敬親 (モウリ タカチカ) はその藩の伝統通り 「君臨スレドモ統治セズ」 の方針をとり、藩政に口出しせず、藩の内閣がどう変わろうとも、その上申に対しては、必ず 「そうせい」 といった。このため “そうせい公” などと蔭でささやかれた。
幕府は、長州が京都を犯したという口実のもとに、長州征伐を下命した。幕府という猫が、本来のトラになった。
なにしろ、幕府は、1615年の豊臣家滅亡 以来、島原ノ乱のような一揆は別として、正規に兵を動かし、正規の大名を伐つという軍事行動をやったことがなかった。長州征伐によって世界史にないといわれる二世紀半以上の江戸時代的平和が破れたのである。
むろん、日本国の統帥権は将軍にあった。国語解釈風に言えば、統帥とは軍隊を統べひきいることである。また統帥権とは、全軍の最高指揮権をさす。
将軍は最高指揮権を持ちながら自ら総大将になろうとしなった。
代理主義をとった。総大将には、御三家の一つ尾張徳川家の元当主を任命し、諸大名の兵を動かすことにした。
大名達は、同じ仲間の大名を伐つなど迷惑至極に思っていたし、総大将の慶勝 (ヨシカツ) にいたっては当惑のあまり、何度も将軍の親征を乞うた。が、幕府は承知しなかった。幕府は、自らの手を血で汚すことをおそれたのである。
幸いこの第一次長州征伐は、兵火を交えずにすんだ。
長州の方が罪を謝した。藩内にあって鎖攘派が没落し、佐幕派 (通称・俗論党) が藩政を牛耳って、三人の家老を切腹させた。幕府は降を容れ、征討軍を解散させた。

これより前、長州藩では高杉晋作の献言によって、騎兵隊が出来た。
このことによって、一藩の内部に限られた事ながら。三百年の武士の世は終った。なにしろ出身階級を問わない志願兵制で、彼等が武士にかわって藩を守るというのである。
さらには、高杉は藩政府が幕府に屈したあと、奇兵対を革命軍として藩都萩に進撃し、士族軍を撃破して藩の政権を佐幕派から奪い取った。ついでながら、さきの 「いよう、征夷大将軍!」 の張本人は、高杉であった。
この藩では、藩内の富商も農民もみな挙藩防衛を支持した。いわば明治維新の前に、小さな国民国家が出来ていたといっていい。
やがて幕府は第二次長州征伐を発動した。が、幕軍は長州の四境で惨敗した。庶民軍に、歴世の武士達が負けたのである。

変転して、戊辰になる。
新将軍慶喜は、大坂城にあった。すでに “大政奉還” によって、彼は政権を返上した。ただし領地は保持していた。
薩長は、朝命と称し、大阪の慶喜に対し、その領地をも返納するように強要した。
これに対し、大坂城の慶喜の身辺には、会津・桑名の藩兵が多数いた。彼等は “薩賊” と呼んで薩摩藩の横暴に激昂した。ついに正月早々、京都に向かって押し出すことになる。作戦行動という明快なものでなく、武装陳情という曖昧なものだった。
総数一万五千、先鋒は新選組、会津・桑名の藩軍で、これに大坂で徴募した “歩兵” という庶民兵が加わっていた。
ただし、統帥者がいなかった。
将軍慶喜が陣頭に立つわけでもなく、傍観者として大坂城にいた。
鳥羽・伏見での敗報が大坂城に届くと、慶喜は味方にも報せず、会津・桑名両藩主を連れ、夜陰に紛れて城を脱出し、海路江戸に戻った。
慶喜が、大兵を擁しつつ自ら敗北の体をとったのは、後世に賊名を残したくなかったからといえる。いわば軍事行動というより思想行動をとった。
その後の戊辰戦争にあっても、慶喜自身、その統帥権を用いることはなかった。
薩摩も、藩父久光に言わせれば、彼の知らぬ間に藩軍が家臣の西郷隆盛らの手で勝手に動いて明治維新を樹立させたことになる。長州藩主にとっても、それに似ていた。
戊辰戦争にあっては、徳川家・諸大名とも、それぞれの統帥権は、あいまいであった。委任もしくは政略による委任で以って、有志や実力者によって軍が動かされていた。薩摩の藩父島津久光が、藩軍を勝手に動かした西郷隆盛に対し、 「彼は安禄山である」 と言った言葉は、この間の本質を語っている。島津久光という病的な保守主義者にとって、明治維新は本意ではなかったのである。
これによって、わが国の軍隊における統帥権の曖昧さは、すでに幕末にきざしていたといえる。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (二) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ