〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/09 (日) 統 帥 権 (一)

昭和の軍閥の話である。この存在とその奇異な活動は日本史上の非遺伝的な存在だと私は感じてきた。この主題を数回続ける。先ず、江戸末期から、ふれたい。

明治維新 (1868年) が、植民地になるまいとする攘夷運動から始まったことは、いうまでもない。
幕府は、二百数十年、鎖国をして来た。
のんきな国で、外的を防ぐための国防私設は何一つ持たなかった。平和主義ということでいえば、世界史上の奇観であった。
無防備鎖国がまかり通ったのは、世界が遠洋航海をまだ十分に産業化しておらず、航洋船が日本近海に出没しなかったことによる。
が、宝暦六 (1756) 年にロシア人が厚岸 (アッケシ) に来て以来、日本近海がさわがしくなった。

江戸後期の日本に大きな衝撃波を与えたのは、清国で起こったアヘン (阿片) 戦争 (1839〜42) だった。明治維新の遠因だったといっていい。
むろん、情報のみによる衝撃波だった。
当然ながら外国に一人の日本人もおらず、誰も肉眼でアヘン戦争を見た者はいなかった。それだけに、この島国の人々は風評に過敏だったといえる。

十九世紀初頭のヨーロッパは、まことに猛々しい。
先ず英国が、清国に進出した。
一方、清国は、古代そのままの体制でどんよりと過ごしていたし、しかもアヘンに吸飲が流行し、北京皇族までが、その中毒にかかっていた。
英国人にしてこの市場に目をつけたのは、東インド会社の船医あがりのウイリアム・ジャーディンという男で、やがて同じスコットランド生まれのマジソンとう男と組み、1832年、ジャーディン・マジソン商会を興した。主として清国にインド製のアヘンを密輸 (清国では禁制品としていた) することで巨利を得た。
ウイリアム・ジャーディンは、利益追求者としては人間ばなれしていた。あるとき清国の役所に請願に行き、清国官憲によって棒で後頭部を殴られながらも、直立しつつ請願を読み上げたという。清国人はこの男に呆れ、「老鼠 (ラオスー) 」 というあだ名で呼んだ。
1838年、広東にくだった欽差 (キンサ) 大臣林則徐は、翌年、押収アヘンを虎門 (コモン) 海岸で焼き捨てた。曲折の末、英国は報復のため軍艦十六隻、兵員輸送船二十七隻、陸軍約四千を送り込んできた。
英軍は連戦連勝した。
華南ばかりか、華北の天津 (テンシン) をおさえ、北京と交渉し、賠償金を取り、香港を割譲させた。武力が恐ろしいばかりの利益を英国にもたらしたのである。
英軍は飽くことを知らず、華中の浙江をおさえ、長江流域に進出し、上海を占領した後、五港の開放と再度の賠償金を要求し、勝ち取った。1842年のことである。
翌々年の1844年、清国の意外な弱体ぶりをみた米と仏が、このどさくさにつけ入って、英国と同様の待遇 (片務的な最恵国待遇など) を清国に強制し、成功した。 中国が半植民地化されてゆくのはこの時から始まる。

ついでながら、清国・朝鮮・日本という東アジアのふるい三国は、そろって鎖国をしていた。
朝鮮はアヘン戦争という、文明史的な大事件に対し鈍感だった。
この鈍感さは、おそらく儒教体制の弊によるものだったろう。官学である朱子学が、空論と固陋さ、さらには自己の文明についての強烈な自己崇拝を朝鮮に植え付けていて、外界の音響から人々の鼓膜を厚くしていた。
江戸時代の日本は、漢籍こそ読んでいたが、体制も社会慣習も中国ふうではなく、大胆にいえば儒教でもなかった。大隈重信は幕末にあって 「日本はしいていえば法家主義だ」 といったが、その当否は兎も角中国や朝鮮とは体制が違うということを言いたかったのだろう。
簡単にいえば、中国や朝鮮は中央集権制をとっていたが、日本は偶然ながある時代のヨーロッパと似た封建制をとっていた。つまり大名達が割拠的な自治体制をとり、その上に将軍という統一の機構を載せていて、一国の平和と秩序を成立させていた。
言い変えると、事実上の主権者である徳川将軍は四百万石 (一説では八百万石) を領する最大の大名で、その武力で以って傘下の大名群を束ねていた。
いわば、徳川将軍家は大名同盟の盟主というべき存在だった。当然ながら統治の原理は武であった。
武でありつつも、元和偃武 (ゲンナエンブ) 以来、文治主義そのものだった。さらには統治の方法といえば、儒教的人治主義ではなく、大隈重信がいうように一種の法治制をとってきた。

余談だが、のちの日本は安政条約によって半ば国際社会に入る。当時、日本の幕藩体制はヨーロッパ人にとっても不可解だった。フランス政府はいちはやく将軍を皇帝と呼び、さらに諸大名をつぶして郡県制を布くように内密ですすめた。これに対し、英国は別な見方を取った。やがて英国公使館員アーネスト・サトウは、将軍は大名同盟の盟主であるという体質に気づいた。

幕府は、アヘン戦争という衝撃波に対し、鋭敏に反応した。国家を防御する力はなかったとはいえ、武の原理の上に立っていた政権だけに “敵情” については鋭敏だったといえる。
また日本にとって幸いしたには、厳格な鎖国をおこないつつも、長崎一港だけは限定的に開港していたことであった。つまりオランダ商人と清国商人に対してのみ通称を許し、そのことで、暗箱 (アンバコ) にあけた針の穴ほどながら外光を入れていた。
幕府は長崎奉行に命じ、アヘン戦争が終了した翌年 (1843年=天保十四年) 、情報の収集に乗り出した。
長崎在留のオランダ人には英国についての情報を、また清国人に対しては、清国の応戦の実体について問うた。調査は、質問書を発し、回答を求める形式でおこなった。
幕府は、英国のことなど、殆ど予備知識がなかったが、西洋学として蘭学が学ばれてきたために、未知の英語を十分想像することが出来た。
それにしても幕府の驚きは大きかった。そのことは、十数年来、沿岸の諸藩に対して出し続けていた 「異国船打払令」 という乱暴な法令を引っ込めたことでもわかる (異国船打払令は、文政八 (1825) 年に出された “有無に及ばず打ち払え” という容赦のないものだった。幕府にすれば、もしこの令が諸藩によって本気で実行されればアヘン戦争の二の舞になることを恐れたのである)

石井孝氏の 『日本開国史」 (吉川弘文館刊) には、当時清国に駐在していたデーヴィスという貿易監督官が本国の外相アバディーンに送った秘密書簡がかかげられている。その秘密書簡では “つぎは日本だ” とある。
さらにデーヴィスは、対日遠征計画もたたていて、日本への接触 (攻撃開始といていい) は、1846 (弘化三) 年以降という予定だった。
が、実現されなかった。理由は英国東洋艦隊が清国一つに忙殺されていたのと、日本という貧寒たる市場に魅力を感じなかったことなどによる。

アヘン戦争という衝撃波が日本社会にもたらした産物は、在野評論を成立させたことである。世論は、圧倒的な力をもって沸きあがった。
それまでの幕藩体制は、 『論語』 の 「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」 を都合よく解釈して、為政者絶対主義というべきものだった。ときに在野評論が存在しても、幕府はしばしば“妖言ヲナス” などといって弾圧してきた。
が、外患は、幕藩体制の次元を超えた日本国意識を人々の間にウン醸させた。

それらのなかで印象的だったのは、“東洋道徳・西洋芸術” をとなえて西洋の科学技術を導入すべきだとした信州出身の人佐久間象山や、知識人こそ日本国の危難のために殉ずべきだという軌範を示した長州出身の吉田松陰、また民間にあってもっと早い時期にロシアおよび列強のアジアへの勢力伸張と海防と経済の充実を説き、江戸日本橋の下を流れている水はロンドンのテムズ川に通じている、という意味の文章を以って暗に鎖国の愚を諷した林子兵などがいた。
どの国でもそうだが、歴史が変わる胎動期には先ず思想化が現れ、その多くは非業に死ぬ。
右の三人のうち林子平は幕府から言論弾圧を受けただけで命までは取られなかったが、象山は国粋派のテロによって京の路上で殺され、松陰は幕府の刑場で殺された。
英国の貿易監督官デーヴィスの対日遠征計画は実らなかったものの、その代役であるかのようにして、嘉永六 (1853) 年、アメリカのペリーが艦隊を率いて江戸湾に入り込んできて開国を迫った。以後 “幕末” と呼ばれる国内の争乱期に入る。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (二) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ