〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/08 (土) 歴 史 の な か の 海 軍  (五)

日本海軍は、世界史の中の海軍がそうであったようなものではなかった。つまり侵略用でもなく、植民地保持用でもなかった。
その原型は、明治三十八 (1905) 年五月、欧州から回航されてくる帝政ロシアの大艦隊を、対馬沖で待ち伏せ、これに対し百パーセント近い打撃を与えるべくつくられた。げんにその目的を全き形で果たした。つまり防御用だった。
当時のロシアの膨脹主義は恐るべきものだった。
その海軍は、旅順とウラジオストックの二港にそれぞれ艦隊を蔵し、日本海と黄海に威圧をあたえていた。
この両艦隊に加えて、欧州からバルチック艦隊が加われば、日本国の沿海はロシアの海になり、満州における日本陸軍は涸死 (コシ) する。国家そのものがロシアの属領になってしまうのである。
これに対し、日本海軍は、一方においてウラジオストックの港外わおさえ、また旅順を封鎖しつつ、主力を以って対馬沖でバルチック艦隊を要撃した。これを敢然試合の如くに撃滅した。世界海戦史上、このように絵に描いたような完勝例はなかった。
明治のひ弱な国力で、この一戦のために国力を越えた大海軍を、持たざるを得なかった。問題は、それほどの規模の海軍を、その後も維持したことである。

この主題の連載の中で、ふつう大海軍は広大な植民地を持つ国が必要としたものだということを、以前述べた。
たとえば十六世紀を最盛期とするスペインの例をあげた。スペインの場合、新大陸からの果実を運ぶために商船隊が大西洋を梭 (ヒ) のように往復したが、それらを海賊から護衛するために海軍を必要とした。ついには無敵艦隊 (インヴィンシブルアルマダ) と呼ばれるほどの大海軍に成長した。
一種の天敵であるかのように、これらスペイン商船を狙ったのは、主としてイギリスの海賊だった。
彼等は企業化しており、株主を持ち、それらから私掠を請け負い、掠奪品を株主達に分配した。
それらを、イギリスの国家が後押しするまでになって、両国の関係が悪化した。
1588年、スペインはイギリスを懲らしめるべく、戦艦六十八隻を中心とする百三十隻の無敵艦隊をドーバー海峡に派遣した。そこで、スペインはイギリスに完敗した。
その後、イギリスが海外における植民地獲得に熱中し、やがて大海軍を持つに至る。
アメリカの場合は、イギリスの植民地であることから出発し、独立を獲得してからは、その独立と、その長大な ─ 大西洋と太平洋にわたる ─ 海岸線をまもるために海軍が建設された。その地理的理由から、その海軍は陸軍よりもはるかに大規模たらざるを得なかった。第二次大戦までのアメリカ陸軍は、ごく規模が小さかった。

要するに日本の場合、海軍の興起と発達の条件が、右のような世界の先例と異なっていた。
バルチック艦隊を日本海の西の入り口で撃滅するという条件で成立し、いわば一局面で要撃し、撃滅するという形態であった。その条件が消滅すれば、規模が縮小されても当然だったといっていい。
もしここに、架空の話しながら、無私にして全能の政治判断機械が存在するとすれば、日露戦争後、日本海軍は何分ノ一かに縮小されていたろう。
が、人間の歴史は、その人間の生身で存在し、発展する。現実はそのようにはならなかった。
海軍は、近代化を遂げた日本国民にとって栄光の存在だったし、その担い手が海軍省と海軍軍司令部を形成している。当然その規模が維持された。

維持こそ大変だった。海軍は機械によって出来ているために、艦艇は絶えずモデルチェンジされねばならなかった。それには、莫大なカネを食う。

第一次世界大戦後、英米でさえ建艦競争に耐えかね、海軍軍縮を唱え、いわば世界の公論として日本に持ちかけた。
日本としては渡りに舟とすべきだったが、海軍の中でも軍縮派は少数だった。多くの海軍軍人は、いまでいう “省益” のために軍縮に反対した。
1921年十一月から翌年二月までのワシントン会議によって、主力艦の建造は十年間休止すること、既存艦の一部はこれを破棄すること、保有の総トン数の上限は、米・英をもって52万5千トンとするのに対し、日本はその六割とすることなどが決められた。
全権大使は、山本権兵衛以来の逸材といわれる海軍大臣加藤友三郎だった。山本が創建し、加藤が縮小した。加藤は本来、日米戦争などは日本海軍にとって不可能であるという理性に立っていた。
ついでながら、どの国の陸海軍でも軍備上仮想敵国を設けていたように、日本海軍もアメリカ海軍を想定していた。あくまでも仮想であって、実際に戦争をするわけではなかった。しかし、海軍内部の俗論は、
「対米比を七割にせよ。でなければとても勝てない」
として、軍食派を呪った。加藤はともかくそれらをおさえた。

別に言えば、大正・昭和に入って、日本海軍は存続を危うくするほどの致命的欠陥を抱えるようになっていた。
第一大戦後、艦艇は石炭から石油で動くようになってた。その石油はアメリカなどから買い付けねばならない以上、対米戦争など、万が一にも起こせるものではなかった。
しかしそのことについて、海軍は外部にあまり洩らさなかった。
とはいえ、この課題は機密でもなんでもなく、常識を以って推察すればわかることであった。ところが、大正末期から昭和にかけての言論人や政治家、陸軍の一部は、この一事に気づかなかったか、あるいは気づかぬふりをして海軍軍縮派の “軟弱ぶり” を罵った。
ともかくも重油によるエンジンの出現とともに、日本海軍は、少なくとも長期間は戦えない海軍になっていたのである。

軍縮会議は、さらに細部を決めるために、昭和五 (1930) 年、ロンドンで開かれた。
英米ともに代表は文官になった。軍人を代表とすれば問題が先鋭化して妥協を見出しにくいというのが、理由だった。
日本もそれにならい、文官の若槻 (ワカツキ) 礼次郎が全権大使になり、海相の財部彪 (タカラベ タケシ) 大将が全権委員になった。結果は、対米妥協のにおいを残して妥結した。
いまからみれば妥当な結果かと思えるが、海軍軍令部が猛反対した。ときの首相は、大蔵省出身の土佐人浜口雄幸 (ハマグチ オサチ) で、重厚清廉で人気があった。海軍内部の反軍縮派が猛烈な反浜口の攻撃をし、これに乗じ、昭和期の政治的一変態ともいうべき右翼まで暗躍した。海軍と一部政党人が、のちに陸軍が十八番 (オハコ) とする “統帥権干犯” という、結果として酒精度の強烈な亡国的言辞を浜口内閣に対して吐いたのはこの時である。
浜口内閣は昭和五 (1930) 年の総選挙で圧倒的多数を得ていたため、強気をもって、同十月、右の条約を批准させた。おかげで、大不況期における国家財政は、多少は救われた。
ただし、その翌月、浜口その人は、東京駅で右翼によって狙撃され、ほどなく死ぬ。憲政に力のあった時代は、浜口内閣のあたりで終焉したともいえる。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (二) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ