〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/07 (金) 歴 史 の な か の 海 軍  (三)

幕末、国論が二つにわかれた。
一派は過激派で攘夷をとなえ、攘夷を朱子学的に尊皇に結び付け、略して尊攘などと称した。
これに対し、幕府の開国をやむを得ぬものとする穏健派が存在した。長州藩では、藩内のこれら穏健派のことを因循党などと呼んだりした。
これらの状況の中で、 “海軍” という概念を持ち出すことは、密室の壁に通氣孔を開けたようで、一種の思想語であるかのような観があった。さきにふれたように、 “尊攘家” 時代の坂本竜馬が、勝海舟を斬りにゆこうとし、その論に服して門人になったというのも、海舟によって “海軍” が持ち出されたために、それに服したのである。

その勝海舟が海軍を学んだのは、幕府によって長崎に設けられた海軍伝習所においてだった。勝の入校は、安政二 (1855) 年である。
ついでながら、鎖国日本とオランダとの格別な関係が、幕府の開国によって終幕した。周知のように幕府は清国とオランダに限って、長崎において貿易を認めてきた。オランダはこれによって、とくに江戸中期までは莫大な利益を得たことはよく知られている。
オランダは、いわば感謝の意味をこめて、日蘭の特別なかかわりの終幕にあたり、蒸気軍艦一隻を寄贈してくれた。海軍伝習所は、それを練習艦として、長崎西役所で開校された。
オランダ側は、鍛冶工や船大工までをふくめた選り抜きの教師団を組織した。それらの第二次のカッテンディーケ中佐は、のちに海軍大臣になる人である。聡明で柔軟な人柄だった。
幕府のオランダに対する態度は、伝統的に横柄だったというほかない。オランダ側も商利のためにこれに耐えた。日本開国後、他の国々の外交団がオランダ人の幕府への卑屈さを知って、ヨーロッパ人の恥だと言うものさえいた。
その終始控え目だったカッテンディーケに、 『長崎海軍伝習所の日々』 (水田信利訳・東洋文庫) という回想録がある。
当時のオランダ人は、教える立場にありながら、幕府に対し、生徒の質や年齢についての強制もしなかったようである。四十人の生徒 ─ 幕臣 ─ のなかには海軍を学ぶには老けすぎた者や、物覚えのよくない者もいた。
オランダ側が、生徒に対して訓練服さえ強制しなかったのは、前途のような関係が長く続いたせいである。
生徒達は侍姿に大小を差して、マストに登ったり、開銀歩兵の訓練を受けたりした。
「日本の服装は、艦上にせよ、また陸上にせよ、すべての教練に不向きなものである」
と、カッテンディーケはその回想録のなかでこぼしている。
なによりも生徒達の昼食が、大変だった。
西洋式艦船の構造は、二百人ほどの食事を一個の厨房で作るという点で、みごとなほど機能化されている。が、生徒たちはそれを利用しようとはせず、一人一人が甲板上に七輪を持ち出して煮炊きした。
軍隊教育というのは、それを教える側が、生徒に対し、生活の根底から軍隊文化を圧倒的に押しつける以外に成立しない。海軍教育の場合、海軍という世界共通の “文明” を日本人に伝え習わせるためには、服装から起居の動作まで固有の文化を一時捨てさせねばならないのに、長崎の海軍伝習所ではそれが出来なかった。
話がすこしそれるが、この教師団の一員だった軍医少佐ポンペが、幕府の依嘱により、ただ一人で西洋医学を組織的に教えたことは有名である。
付属病院も建てられた。ただ入院患者の士分の者は、他の身分の者と同室することを嫌ったりした。
西洋の技術の導入には、海軍であれ医学であれ、明治維新と文明開化が必要だったことは、右の二、三の事例だけでもわかる。

権兵衛は、鹿児島に帰った。
彼の生家は、甲突 (コウツキ) 川が彎曲している土堤下にある。
そのやや低湿気味の一郭を鍛冶屋町 (カジヤマチ) といい、下級武士の団地というべき所で、平地が一戸百坪ぐらいに碁盤の芽に区切られ、七、八十戸の武家屋敷が並んでいた。この七、八戸の郷中 (ゴウチュウ) から、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、統語平八郎、それに山本権兵衛が出た。いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである。

権兵衛はふたたび東京に出、旧幕府の講学 (漢学) の機関である湯島の昌平黌に入った。この間、勝海舟を訪ねた西郷隆盛が権兵衛に対し、
「海軍をやれ。ついては勝先生に相談せよ」
といったらしい。
海舟は何度か権兵衛の訪問をうけるうちに気に入り食客にした。
前時代の賢者だった海舟が、新時代の権兵衛と言う少年に “海軍” を伝授していく様は、 『史記』 のなかの鬼谷子 (キコクシ) という隠者が、蘇秦や張儀に縦横術を教える光景を思わせる。
そのうち、海軍事情が一変する。

東京築地の一郭に、明治三 (1870) 年、のちの海軍兵学校の前進である海軍操練所 (海軍兵学寮) が出来たのである。開校早々は、主として旧幕府海軍出身者が教授した。権兵衛も日高壮之丞とともに藩の貢進生としてその第一期に入校した。
在学中の明治六年、英国式に変わった。
政府は英国から海軍教師団を招き、いっさいを一任したのである。
あたかも築地のそのあたりが小英国になったようだった。
教師団長のアーチボールド・ルシアス・ダグラス少佐は、起居動作まで英国式を強要した。
すべて押しつけだった。食事も、西洋式になった。
権兵衛のような典型的な薩摩兵児 (ヘコ) が、神妙にナイフとフォークを動かして西洋食を食べているさまを想像したい。
ダグラス少佐は、座学よりも技術を重んじた。技術はすべて英語だった。校内では英語が公用語というべきだった。
この押しつけぶりを、旧幕府時代の長崎海軍伝習所と比べると、じつにおもしろい。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (二) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ