このころ、歳三の隊は池田屋に到着している。歳三は、土間に入った。
すでに浪士側は、大刀を奪って戦う者、手槍を使う者、小太刀を巧妙に使いさばく者など、二十数人が死を決して戦い、藤堂平助などは深手を負って土間にころがっていた。
「平助、死ぬな」
というなり、奥の納戸から飛び出してきた一人を、かまちに右足をかけざま、逆胴一刀で斬りはなった。屍体が跳ね上がるようにして土間に落ち、藤堂の上にかぶさった。
二階では、近藤がなお戦っている。近藤の位置は表階段の降り口。
おなじ裏階段の降り口には、永倉新八がいる。降り口の廊下は狭い。ほとんど三尺幅の廊下で、浪士側は、一人ずつ近藤と戦わねばならぬ不利がある。
肥後の宮部鼎蔵が、一同かたまって廊下にあふれ出ようとする同志を制し、室内の広い場所に近藤を引き込んで多勢で討ち取るように指揮した。
近藤は、敵が廊下に出てこないため、再び座敷に入った。
宮部と、双方中段で対峙した。宮部も数合戦ったが、近藤の比ではなかった。面上を割られ、それでも余力を振るって表階段の降り口までたどり着いたが、ちょうど吉田稔麿を斬って駈けあがってきた沖田総司に遭い、さらに数創を受けた。宮部はこれまでと思ったのだろう、
「武士の最期、邪魔するな」
と刀を逆手ににぎって腹に突き立て、そのまま頭から階段をまっさかさまにころげ落ちた。
肥後の松田重助は、二階で戦っていた。得物は、短刀しかなかった。この日、重助は変装して町人の服装だったからである。
そこへ沖田が駆けこんで来た。剽悍で聞えた重助は短刀のままで立ち向かったが、たちまち打ち落とさ、左腕を斬られた。そのはずみに同志大高又次郎の屍につまずいて倒れたが、倒れた拍子に、死体が大刀を握っているのに気づき、もぎとって再び沖田と戦ったが一合で斬られた。
(この松田重助の弟山田信道がのち明治二十六年京都府知事になって赴任したとき、闘死者一同の墓碑を一ヶ所に集め大碑石を建てた)
すでに、池田屋の周辺には、会津、桑名、彦根、松山、加賀、所司代の兵三千近くがひしひしと取り囲んでいる。
斬り抜けて路上に出た者も、多くは町で斬り死したり、重傷のため捕縛される者も多かった。
土州の望月亀弥太は屋内で新選組隊士二人を斬り、乱刃を駈け抜けて長州藩邸に向かう途中、会津藩兵に追いつかれて、路上、立ったまま腹を切った。
同じく土州野老山五吉朗も数創を負いながらやっと屋内を脱し、長州藩邸まで落ちのび、開門を迫ったところ門はついに開かず、そのうち、門前で会津、桑名の兵二十数名に囲まれ、これも門前で立腹
(タチバラ) を切った。
志士側の即死は七人。生け捕り二十三人におよんだが、重傷のためほどなく落命したものが多い。
彼等はよく戦っている。わずか二十数人で、包囲側に与えた損害の方がはるかに大きかった。
玉虫左大夫の 「官武通紀」 の記述によると、幕兵の損害は、次のようである。
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