〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/06 (木) 断 章 ・ 池 田 屋 (一)

歳三は、この池田屋斬りこみにあたって、その前日、綿密に付近を探索している。
この三条大橋は、江戸日本橋から発する東海道の宿駅で、大橋の東西の往来には旅籠屋がひしめいている。
池田屋も、その一軒である。
間口三間半、奥行十五間、二階建てで、一階向かって右が格子、左が紅殻壁 (ベンガラカベ) 、二階もびっしり京格子ではりめぐらされ、内部から外は見えても、往来から人に見透かされるような構造ではない。 (いまはない。昭和六年、とりこぼたれ、その敷地跡に、鉄筋コンクリート四層の現在の佐々木旅館が建てられた)
祇園町に、会所がある。
実成院 (ジツジョウイン) という祇園社の執行 (シギョウ) をつとめる寺の門前にあって、このあたりだけは人通りが少ない。近藤、歳三は、ここを攻撃準備点に選んでいる。赤穂浪士の場合のそば屋に相当するであろう。
その日、あらかじめ、隊服の羽織、防具などをこの会所に運び込んでおいた。壬生にある隊士たちは、夕刻、市中巡察を装って出る者、仲間達と連れ立って遊びに行くようなふうを装う者、それぞれ数人ずつ、別々に壬生を出発した。
日没後、右会所に集結。

一方池田屋の楼上には、長州、土佐、肥後、播州、作州、因州、山城などの藩士、浪士二十数人が、日没後、集まることになっている。約束は、五ツ (午後八時) だったという。長州の桂小五郎 (木戸孝允 (タカヨシ) ) も、来会する予定になっていた。
このこと、孝允の自記には、
「この夜、旅店池田屋に会するの約あり。五ツ時、この屋 (オク) に至る。同志未だ来たらず。よって、ひとまず去ってまた来たらんと欲し、対州の別邸に至る」
とある。要するに、定刻には行ったが、誰もまだ来ていなかったため、近所の対馬藩の京都藩邸 (川原町姉小路角) に知人を訪ねた、というのである。
「しかるに未だ数刻を経ざるに、新選組にはかに池田屋を襲ふ」
と続く。
桂は命びろいをしたのだ。この前後にも桂はよく似た幸運を拾っている。命冥加という点で、維新史上、桂ほどの男はない。
桂がいったん池田屋を去った直後、同志一同が集まってきている。その主な者は、

長 州

吉田稔麿 (トシマロ) 、杉山松助 (マツスケ) 、広岡波秀 (ナミヒデ)
佐伯稜威雄 (ミズオ) 、福原乙之進 (オツノシン) 、有吉熊太郎、

肥 後 宮部鼎蔵 (テイゾウ) 、松田重助、中津彦太郎、高木元右衛門、
土 州 野老山 (トコロヤマ) 五吉郎、北添佶麿 (ヨシマロ) 、石川潤次郎、
藤崎八郎、望月亀弥太、
播 州 大高忠兵衛、大高又次郎、
因 州 河田佐久馬、
大 和 大沢逸兵、
江 州 西川耕蔵、
といったところで、もし存命すれば、このうちの半分は維新政府の重職に就いていただろう。
一座の首領株は、吉田稔麿、宮部鼎蔵の二人で、当時、第一流の志士とされた。
さっそく、二階で酒宴が始まった。
議題はまず、
「古高俊太郎をどう奪還する」
ということである。
つぎに予定の計画であった 「烈風に乗じて京の各所に火を放ち、御所に乱入して天子を奪って長州に動座し、もし余力があれば京都守護職を襲って容保を斬殺」 するという 「壮挙」 を、古高逮捕によって中止するか、決行するか、ということである。
土州の連中は過激で、
「相談もくそもあるか。事ここまで来た以上今夜にも決行しよう」
と主張した。
「それは暴挙すぎはしまいか」
こうおしとどめたのは、京都、大和、作州の連中だったらしい。
もっとも多数を占める長州側は、粒選りの過激派ばかりだが、ただ事前に、京都留守居役 (京都駐在の藩の外交官) 桂小五郎から、釘をさされている。 時期ではない、というのである。酒がまわるにつれて、本来の過激論の地金が出てきた。
階下では、薬屋に化けて表の間に泊まっている新選組監察山崎蒸が、
「ぜひ、配膳を手伝いましょう」
と、台所で働いている。元来、大坂の町家の生まれだから、こういうことは如才がない。主人の池田屋惣兵衛 (事件後獄死) まですっかりだまされていた。
山崎は、酒席にまで顔を出して、女中どもの指揮をした。京には、町家の宴席を運営するために配膳屋という独特の商売があって、山崎はいわば臨時の配膳屋を買って出たのである。
宴席は、表二階八畳の間で、なにぶんにも二十数人が着座すると、せまい。みな、膝を半ば立てるようにして坐った。その各々の左に佩刀 (ハイトウ) がある。邪魔になる。とくに女中が配膳してまわるとき、よほど気をつけなければ、足に触れるかもしれない。
「いかがでございましょう」
山崎は言った。
「万一、女中衆 (オナゴシ) どもがお腰のものに粗忽を致しては大変でございます。次の間にまとめてお置きくださいましては」
「よかろう」
一人が渡した。山崎はうやうやしく捧げて次の間に置き、あとはろくに挨拶もせずにどんどん隣室へ移し、それをまとめて押入れに収めてしまった。
一座の誰もが、このことに無用心を感じなかった。わずか二十数人で京をあわよくば占領しようという壮士どもが、である。
彼等は、近藤の手紙にもあるように 「万夫不当の勇士」 ではあったが、計画がおそろしく粗大すぎた。陰謀、反乱を企てるような緻密さは皆無だったといっていい。
彼等は大いに飲み、大いに論じた。しかし酔えば酔うほど、議論がまとまらなくなり、たがいに反駁しあった。
それがまた彼等の快感でもあった。考えてみればこれは諸藩の代表的な論客を集めすぎた。
『司馬遼太郎全集 ・ 「燃えよ剣」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ