〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/12/05 (水) 『摩訶般若波羅蜜多心経 』

はん にゃ みつ しん ぎょう 
かん ざい さつ ぎょうしん はん にゃ みつ しょう けん  
うん かい くう いつ さい くう やく しゃ しき くう くう 
しき しき そく くう くう そく しき じゅ そう ぎょう しき やく 
ふく にょ しゃ しょ ほう くう そう しょう めつ  
じょう ぞう げん くう ちゅう しき じゅ そう 
ぎょう しき げん ぜつ しん しき しょう こう そく ほう 
げん かい ない しき かい みょう やく みょう じん 
ない ろう  やく ろう じん しゅう めつ どう  
やく とく しょ とく だい さつ はん にゃ 
みつ しん  
おん いつ さい てん どう そう きょう はん さん しょ 
ぶつ はん にゃ みつ とく のく さん みゃく さん 
だい はん にゃ みつ だい じん しゅ だい 
みょう しゅ じょう しゅ とう とう しゅ のう じょ いつ さい  
しん じつ せつ はん にゃ みつ しゅ そく せつ しゅ わつ 
ぎゃあ てい ぎゃあ てい ぎゃあ てい そう ぎゃあ てい  
はん にゃ しん ぎょう 
全知者である覚った人に礼し奉る
求道者にして聖なる観音は、深遠な知恵の感性を実践していた時に、存在する物には五つの構成要素が有ると見極めた。
しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
シャーリプトラよ、 此の世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない、また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象 であるのではない。
(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ、実体がないということは 物質的現象なのである。
シャーリプトラよ、 この世においては、全ての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減ることもなく 、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ、 実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もまく、知識もない、眼もなく、 耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れらる対 象もなく、心の対象もない。
眼の領域から意識の領域に至るまでことごとくないのである。
(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。
こうして、つい に老いも死もなく、老いと死がなくなることもないということにいたるのである。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを 制することも、苦しみを制するみちもない。
知ることもなく、得るところもない、それ故に、得るということがないから 、諸の求道者の知恵の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。
心を覆うものがないから、恐れがなく 、転倒した心を離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目覚めた人々は、すべて、知恵の完成に安んじて、この上ない正しい目覚めを覚り得ら れた。
それ故に人は知るべきである。知恵の完成の大いなる真言、大いなる悟りの真言、無上の真言、無比の真言は、すべて の苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。
その真言は、智恵の完成において次のように説かれた。
諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶
般若心経