〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/05 (水) 池 田 屋 (二)

「どうだった」
と、近藤が聞いた。
「まだわからん。が、総司も原田も、武士らしい者があの無名小路にしきりに出入りしているのを見ている」
「しかし、万々、間違いなかろう」
「そうありたい」
もともとは、近藤自身が聞き込んだことなのである。
実は先日、近藤自身が隊士を率いて市中巡察をし、堀川の本圀寺 (ホンコクジ) (水戸藩兵の京都駐留所に使われている) の門前まで帰って来たとき、
「やあ、おめずらしや」
と、近藤の馬前に立ちふさがった一人の武士があった。
すわ、刺客か、と隊士が駈け寄ると、武士は一向にあわてず、
「わしです、江戸の山伏町に住んでいた岸淵兵輔 (ヒョウスケ) です。江戸では、貴道場でさんざんお世話になった・・・・・」
「おお」
近藤は、馬から降りた。記憶がある。江戸道場が後楽園に近かったせいで、水戸藩邸の下士がよく遊びにきていたが、岸淵もその一人であった。足軽の子、とか聞いていたが、学問も出来、態度も重厚で、とてもそういう軽輩の出とな見えなかった。
いまも、服装こそ質素で、皮色木綿の羽織に洗いざらした馬乘る袴という体 (テイ) だが、すっかり肥って堂々としている。
「去年から、京都詰めになっています。土方氏、沖田氏、御活躍だそうですな」
「路上ではお話も承れぬ。壬生へご光来願えませんか」
近藤というのは、こいう人懐っこさがある。抱くようにて連れて帰った。
さっそく酒席を設け、歳三も出た。
当節、在洛の武士というのは、二人以上集まれば、国事を論ずる。そういう緊張した空気を、京の町は持っていた。時代が、沸騰しきっているのである。
昨年八月、いわゆる文久の政変があり、それまで京都政談壇を牛耳っていた長州藩が一夜で政界から失脚し、長州系公卿七人とも国許へ撤収した。
以来、長州藩の若手はいよいよ過激化し、諸藩脱藩の急進的な浪士はほとんど長州藩に合流し、倒幕挙兵の機をねらっている。
が、薩摩藩、土佐藩、それに会津藩、越前藩という政治感覚の鋭敏な大藩がすべて反長州的感情を持ち (この感情には複雑な内容があるが、要するに長州藩の権力奪取活動があまりに過激で時勢から独走し過ぎ、結局、長州候が幕府に取って代わろうとする意図があるのではないかという疑いが濃厚すぎたためである。長州候自身、その若い家臣団に体よく乗せられたところがあったらしく、維新後、長州の大殿様が、おれはいつ将軍になるんだ、と側近に聞いたという伝説さえある) 、とにかく長州一藩の軍事力では、幕府や、右 「公武合体派」 の四藩を敵にまわすことが出来ない。
そういう情勢にある。
だから、長州荷担の浪士団を含めて秘密軍事組織をつくり、それを京に潜入させて一気に町を焼き、土寇的 (ドコウテキ) な勤王一揆をあげようとしている、という風評は、京の町人の耳にまで入っており、様々の流言が飛び、気の早い連中のなかには田舎へ避難準備をしている者があるぐらいだ。
長州も追いつめられて、悲痛な立場に立っている。これが成功すれば義軍、失敗すれば全藩土匪の位置に落ちるだろう。
岸淵兵輔は、情勢を様々に論じた。この水戸藩士はごく常識的な公武合体論者で、長州のはねっかえりが、苦々しくて仕様がないらしい。
その点、近藤も同じだ。
ちかごろ、なかなか弁ずる。滑稽を解せぬ男だから、弁ずると、寸鉄人をさすような論を吐く。
歳三は、黙っている。歳三にとって、空疎な議論などは、どちらでもよい。彼の情熱は、新選組をして、天下最強の組織にすることだけが、自分の思想を天下に表現する唯一の道だと信じている。武士に口舌は要らない。
この席で岸淵は、意外なことを言った。
「わが藩 (水戸) はご存知のように政情の複雑な藩で、藩士は様々な考えを持って睨みあっている。だから風説が入りやすいのですが、昨夜、容易ならぬことを耳にした」
それが、舛屋喜右衛門、じつは長州系志士のなかでも大物の古高俊太郎 (江州物部村の郷士で、毘沙門堂門跡の宮侍) の化けおおせた姿であるという。
「しかも」
と岸淵は言った。
「蜂起の為の武器弾薬は、この舛屋の道具蔵に集めてある。これは本圀寺の水戸藩本陣では誰でも知っている」
蜂起派も疎漏な計画をしたものである。岸淵が近藤、歳三に告げた同じ日、舛屋の使用人利助という者が、町年寄の家へ、
── おそれながら、
と、右次第を訴え出た。利助はほんの昨今の雇われ者で、蔵に鉄砲、煙硝、刀槍などが積み上げられているのを見て驚き、累が自分にかかるのを怖れて、いちはやく訴人して出たという。
町年寄は、顔見知りの常廻り同心へ報せ、その同心渡辺幸右衛門という男がたまたま新選組出入りであったので、自分の役所には告げず、壬生屯所へ一報してきた。
「すぐ会津藩本陣に報せよう」
と近藤が言うのを、歳三がおさえた。
「まず新選組独自の手で探索してからのことだ」
もし事実なら、新選組が、壬生の田舎で細々と結盟して以来の大舞台がここに与えられるではないか。
(むざむざ、会津藩や京都見廻組の手柄にすることはないさ)
近藤と歳三が、営々として作り上げてきた新選組の実力を、世に問う事が出来る。
翌夕刻、探索の連中が帰って来た。
「臭え」
原田左之助が言った。この男も探索に向かないのか、臭え臭え、と言うだけである。
沖田はただにやにや笑っていた。山崎、島田、川島といった連中はさすがに観察に席を置くだけに、詳しい聞き込みを報告した。
「すぐ、土方君」
近藤は、出動を命じた。が、歳三は動かなかった。
「新選組の晴舞台だ。局長、あんたが現場に床机をすえるべきだろう。私は留守をする」
「そうか」
三人助勤が選ばれた。沖田総司、長倉新八、原田左之助。その組下の隊士合わせて二十数人が動いた。現場に着いた時は、とっくに日が暮れている。
近藤という男は、やはり常人ではないところがある。
隊士を四手にわけて、無名小路の東西の口および裏口、表口にそれぞれ配置したところまでは普通だが、まず利助に戸を叩かせ、女中が開けるや、たった一人で飛び込んだ。
暗い。が屋内の様子は、利助から聞いて十分頭の中にある。
二階八畳の間に駆け上がるや、すでに寝ていた古高俊太郎の枕もとに突ったち、
「古高」
と甲高い声で叫んだ。
「そちは密かに浮浪の者を嘯集し、皇城下で謀反を企つるやに聞きおよんだ。上意である。縄にかかれ」
「どなたです」
古高も、これまで何度も白刃の下をくぐり抜けてきた男である。落ち着いている。むしろ近藤の方が、うわずった。
「京都守護職会津中将様御支配新選組局長近藤勇」
「あなたが。・・・・」
ちたっと見て、
「支度をする。不浄な縄を受くべき理由はないゆえ、逃げも隠れもせぬ。しばらく猶予を願いたい」
悠々と寝巻きを脱ぎ、紋服に着替え、鬢を梳きあげ、女中に耳だらいを運ばせて口まですすいでから、
「いずれへ参ればよい」
と立ち上がった。
この間、階下を捜索していた隊士は、古高の同志一同の連判状を発見している。
古高は当夜は壬生屯所の牢に入れられ、翌日、京都所司代の人数に檻送されて、六角の獄に下獄した。この夜から、獄吏の言語に絶する拷問を受けたが、ついに何事も吐かず、のち七月二十日、引き出されて刑死した。

『司馬遼太郎全集 ・ 「燃えよ剣」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ