〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/04 (火) 局 中 法 度 書 (一)

「土方歳三。── とうとう出会った」
七里研之助は、辻行燈の腰板で背中をさすりながら、いった。云いながら、ゆっくりと、剣先を、下段にしずめている。
「土方」
七里は楽しそうだ。
「武州の芋道場の師範代が、いまは花の都の新選組副長をなさっている。乱世ながらたいしたご出世だ」
「・・・・・」
歳三は、上段。
「出世したからといって、この七里を見限ってもらっちゃこまるよ」
「だから相手になっている」
「結構々々。ところで近藤さんは、お達者かね。いずれ、おめもじするつもりだが」
「達者だ」
歳三は、吐き捨てるように言った。
「そりァ、よかった。懐かしい、と言いたいがね。普通なら、その辺でいっぺえどうだ、といいたくなるほど、互いに浅からぬ縁だが、縁は縁でもお前、とんだ逆縁さ」
「逆縁だな」
「武州南多摩の泥くせえ喧嘩を、花の都にまで持ち込んで生しかえしたくはねえんだが、お前らとは、どうも適わねえようにできている」
「川原町の長州屋敷にごろついていると聞いている」
「おれの母方が、長州藩の定府 (ジヨウフ) の御徒士 (オカチ) でね。長州といろいろ因縁がある。武州の田舎で、泥鰌 (ドジョウ) 臭え野郎と喧嘩をしているより男らしい死に方をしてやろうと思ってきたのだが、その泥鰌臭えのが、またつながってのぼって来やがった」
「話の腰を折ってすまないが」
歳三は、いった。
「佐絵どのをご存知かね」
七里は、だまった。
知っている、と歳三はみた。七里は、佐絵との間に何等かの連絡があって、きょう、歳三をつけてきたのだろう。
「知らないよ」
「ばかに元気がなくなったようだ。存外、正直者とみえる」
七里は、返事のかわりに剣を中段になおした。その瞬間、歳三の剣が、すばやく上段から落ちた。
が、七里はもうそこにはいない。
ざくり、と歳三の切尖 (キッサキ) で、辻行燈の腰板が裂けた。引き抜くなり、足を大きく上げて、辻行燈を蹴倒した。
行燈のむこうから、七里が飛び出した。
「ちょっとなぶってみせたのさ」
七里が笑った。
そのうち歳三の背後にまわった一人が、ぱっと仕掛けてきた。危うく飛びのいたが、袴を切られた。
(どうかしている)
剣に、はずみがつかない。喧嘩というのは弾みのついた方の勝ちである。やはり、佐絵に対する複雑な印象が、心を重くしているのだろう。
こういう時には、なりふり構わずに引き上げてしまう。それが喧嘩上手というものだ。とは、歳三は百も知っている。武州の田圃で泥喧嘩をしている時の彼なら、一議もなく逃げ去っただろう。が、今は人が違う。新選組副長である。喧嘩にも体面がある。逃げた、とあれば、どんな悪評を京で撒き散らされるか。
(なるほど佐絵のいうとおり、こんな所までおれはすっかり代わったな)
歳三は、刀を右手でかざしつつ、器用に羽織を半ば脱いだ。羽織を脱ぎたいのではない。羽織は、歳三の、狡猾な誘い手である。
果然、半ば脱いだ隙を狙って、右手の男が上段から撃ち込んで来た。
(待っていた)
図に乗った相手の胴を、片手で下からすくうようにして斬りあげた。
「相変わらずの馬鹿力だ」
七里が物陰で舌打ちをした。七里ほどの者なら知っている。片手技ではよほどの力がない限り人が斬れるものではない。
歳三は、やっと羽織を脱ぎきった。
「七里、もそっと寄れ」
「寄れねえよ。妙に沸って調子づいた野郎に仕掛ける馬鹿ァなかろう」
この男も、ただの剣客ではない。喧嘩の勘どころは知っている。歳三の気魄が異常に充実しはじめたのをみて、刀を引き、物陰をさらさらと歩き、
「退け」
と銘じた。
一斉に散った。
歳三は追わなかった
(七里も、人が肥って来やがった)
京に集まっている数ある浪士の中で、人傑も多い。七里のような男でもそういう者にもまれて平素、国事の一つも論じているせいか、八王子のごろん棒当時とはだいぶ印象が違っている。
(男とは妙なものだ)
毛虫から蝶になるような変質も、時にはあるらしい。

『司馬遼太郎全集 ・ 「燃えよ剣」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ