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2007/12/04 (火) 歴 史 の な か の 海 軍  (二)

昭和四十年前後だったか、 『坂の上の雲』 を書き始めたころ、畳の上で水練をするように、海軍の気分を知ろうとした。
幾度か別の場所でふれてきたが、元海軍大佐正木生虎 (マサキ イクトラ) 氏が、そのことでの恩師だった。
正木さんは、痩身で気品があり、声が低く、つねび控え目で、しかもユーモリストだった。海軍二世で、父君は日露戦争に参加し、のち海軍中将になった正木義太提督である。
ことさらに愚問ばかりを、手紙で書き送った。
「なぜ海軍士官の制服には、袖に金の条 (スジ) がついているのですか」
そういうたぐいの、子供じみた問いである。
これに対し正木さんは、歴史学者か文化人類学者のように丹念に調べてくださった。
まだ海賊時代の英国海軍では、甲板士官は勤務中細いロープを袖に巻いていた。それがやがて士官をあらわす袖章になった、というのである。
海軍は、軍医を優遇する、軍医だけでなく、主計、技術といった兵を指揮しない諸専門の人達を士官として大切にした。
「軍医のはじまりについて」
と、私が質問したことについての正木さんの調査はおもしろかった。
英国海軍が海賊まがいであったころ、地中海のどこかに村じゅうの男どもが外科治療に通じた島があったというのである。お伽話のような話だが、英国の船がその島に着岸し、よさそうな男をいわばさらって船に乗せる。航海中は士官として鄭重に礼遇し、一航海が終ると、島に戻した、という。
英国では医者への敬称は言うまでもなくドクターだが、外科医に限って今でもミスターと呼ぶという話を、元駐日大使のサー・ヒュー・コータッツイの 『ある英人医師の幕末維新』 (中央公論社) で知ったのだが、その淵源の一つはこういうところにもあるのかもしれない。

大航海時代の開幕には、英国は参加しなかった。
イベリア半島のスペインとポルトガルが先鞭をつけ、十五世紀末、ローマ教皇の許可によって、この両国は、地球をリンゴを二つに割るようにして領域を決めるまでになった。
前章で、商戦隊という言葉を使った。世界史の上では先ず最初に商船隊があって、海軍はそのあと出来た。商船隊を守る機能としてである。
このイベリア半島の両国の商船隊は、ポルトガルは南アジアから香料を、スペインはアメリカ大陸とくにメキシコから銀を運び、巨利を得つづけた。
海軍の機能を最初に自他ともに認めさせたのは、ポルトガルだった。
それまでインド洋の貿易は、イスラム商人が占有していた。
あとから割り込んだポルトガルはこれに対し、最初から国家 ─ 海軍 ─ の力をもってその商権を奪うべく企図した。
その決戦は、1509年二月、インドの西海岸のカンベイ湾のディウの沖でおこなわれた。
ポルトガルの初代インド総督アルメイダは自ら十九隻の艦隊を率いていた。
これに対し、エジプトとアラブの連合軍は、百隻を超えていたが、海軍とはいえなかった。
ポルトガル海軍はわずか十九隻ながら、大砲その他の武器をよく使い、敵船団を分断し、よく運動して壊滅的な打撃を与えた。
イスラム教徒は、元来キリスト教世界に勝る技術文明を持ち、造船、天測その他の航海術においても、ヨーロッパの師匠だった。ただ、海軍という専門集団を持たないために敗けた。

余談ながら、1982年秋、私はポルトガルのリスボンにある海洋博物館を訪ねた。館長が現役の少将で副館長が大佐という、現在のポルトガル海軍を象徴しているような博物館だった。あらかじめ手紙をもって、
「甲板は、いつ何処の誰が発明したのか」
という質問を送っておいた。
日本の江戸時代の大船は ─ 幕府が航洋船を許さなかったからだが ─ 甲板がなかった。千石船も五百石船もいわばお椀に飯を盛るようにして荷を積み、高浪には弱かった。
甲板は、船を樽にするようなものだと思えばいい。樽に栓があるように、船にも艙口がある。艙口を閉めるだけで船そのものが樽になり、容易に沈まない。
私はこの甲板が発明されてから、ポルトガル、スペインによる大航海が始まったのではないかと思っている。
館内を案内してくれたのは、副館長の大佐だった。一緒に歩きながら、私は手紙の返事を求めた。
「ああ、あの質問のことか。残念だが、答えが見つからない。アラビア人が発明したのではないか」
大佐の返事は、それっきりだった。

スペインが新大陸から輸送される銀によってヨーロッパの覇権を握っていた時、海を隔てて北の英国の人々は実直に毛織物を織っていた。
英国人は、スペイン人に毛織物を売ることによって彼等の銀を得た。ついでながらスペイン史の基本的な失敗は、新大陸から貴金属を掠奪してくるのみで、自らの工業を興さなかったことである。

英国人は、当所、毛織物を海外に売るということから、貿易への関心を持った。
やかてその関心は冒険化した。
英国の海港都市プリマスの商人が、自ら商船隊を率い、スペインの威権のもとにある新大陸まで出かけるようになったのである。
あるとき、その商船隊が、メキシコ沖でスペイン艦隊に懲罰的な攻撃を受け、惨敗してわずか二隻が英国に帰った。そのうちの一隻の船長が、のちにスペイン艦隊への海賊としての名を馳せるフランシス・ドレイク (1541〜96) だった。
ドレイクというこの有能な船長に、プリマスの商人たちがあらそって投資をした。ドレイクはあるときは、南米のチリからスペイン本国に向かう商船隊を襲撃し、二万ポンドほどの貴金属を得たりした。彼は戦利品の多くを女王エリザベス一世に献上してナイトに叙せられたりする。
エイザベス女王はやがてこれらの海賊に私拿捕 (シダホ) 特許状という勅許状を与え、さかんにスペインの商船隊を掠奪させた。
当時、英国はまだ海軍らしい海軍を持っていなかった。これに対し、無敵艦隊は計百三十隻、戦艦だけで六十八隻という史上空前の海上戦力だった。
ドーバー海峡での海戦は、1588年七月三十日に幕を開けた。
英国側は、小型船をそろえていた。
海戦の場合、戦艦が圧倒的に強いとされてきた。スペイン側は主として衝角を利用し、英国側の小型船を圧しつぶすつもりでいた。
が、英国側の小型船は脚が速く、運動が活発で、その上、射程の長い軽砲を備えており、それらの利点を上手く利用して最初から戦いは英国に有利だった。
英国側は、ゲームのように戦った。サッカーやラグビーなどの集団競技を生んだ国らしく、どんな小さな艦の艦長も大局をよく見、自艦が何をなすべきかをよく心得ていた。
スペインの無敵艦隊は惨敗した。

以上、商船隊と海軍の関係を見てきた。
日本の場合である。
ペリー・ショックは以後の江戸幕府は、海軍の建設に熱心だった。一隻の貿易用商船も持たない安政二 (1855) 年、オランダから教師団を招いて長崎海軍伝習所を開いたり、また幕末のぎりぎりに横須賀に造船所を興したりした。まず海軍があった、といえる。
明治政府も、よく似ていた。
遠方に植民地を持つこともなく、ただ自国を守る為という目的のみで、海軍を育成した。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (二) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ