〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/03 (月) 歴 史 の な か の 海 軍  (一)

海軍という概念は、そのころの日本人にとって、尋常なものではなかった。
むりやり近代の曙の中に立たされた日本人にとって、悪状況の中から自らを救い出す夢だったし、単に軍事的概念であることを超えていた。そのことを考えなければ、そのころのことがわかりにくい。
そのころとは、嘉永六 (1853) 年とその翌年の安政元 (1854) 年の “ペリー・ショック” とその後の幕末と呼ばれる騒乱期のことである。

ペリーは、にわかに江戸湾に来た。最初は旗艦以下四隻をひきい、アメリカ合衆国大統領の国書を手交した。翌年、その返事を得べく七隻をひきいて江戸湾頭を圧した。開国を迫ったのである。
巨艦群によって新文明を誇示しつつ、ペリーは傲然としていた。
当然ながら、文明の使者として、善事をなしているつもりだった。
よくいわれるように、M・C・ペリー准将は、十九世紀後半のアメリカ人の、 “明白な運命 (マニフェスト・デスティニー) ” という信念を共有していた。白人優位の精神でもって北米全体に領土を膨脹させ、文明を普及し、周辺の劣等民族を感化するという自明の働きのことである。
このペリーの態度は、日本人の感情を刺激した。
結局、幕府の腰はくだけ、二度目に来航したペリーとの間に、神奈川条約を結んだ。このことは、多くの日本人に、幕府に対する信を失わせた。

国内の世論は、これを城下の盟 (降伏) であるとした。攘夷論が沸騰した。
ついでながら、そのころの日本人の読書人層は、 『史記』 や 『春秋左氏伝』 などによって中国古代史には通じていたが、日本史については、頼山陽の 『日本外史』 で知るのみだっら。 『日本外史』 には鎖国令まで書かれていなかった。言うまでもなく、鎖国は三代将軍家光の時にはじまる。
やがてその事実を知るころ、攘夷論者の間で理知性が加わるようになる。一つには、艦船や兵器において、旧来の刀槍では勝てないことを知るのである。
それでも、手放しの開国論者は少なくなかった。そういう者は ─ 佐久間象山のように ─ 狂信的な攘夷家によって殺された。

土佐の坂本竜馬が、文久二 (1862) 年に脱藩したころは、単純な攘夷論者だった。友人の千葉重太郎とともに幕府の軍艦奉行並 (ナミ) 勝海舟を訪ねたのは開港論者としての勝を、場合によっては斬るつもりでいた。
が、その場で豹変した。勝に世界情勢と日本のあるべき彷徨を説かれ、その説に服したのである。
のち勝が神戸で私立の海軍塾を興した時、その塾頭になる。
このあたり、勝も放埓 (ホウラツ) でなくはなかった。重臣でありながら江戸を離れて居住し、諸藩の士や浪人を集めて私塾を開くなど、穏当ではなかった。
勝にすれば、この開塾は一種の思想行動だった。国内に充満している攘夷熱に対し、正面から開国論を唱えることなく、
「海軍」
という風孔 (カザアナ) をあけることによって、攘夷論の閉塞に一石を投じたとも言える。
実体は、航海学校だった。
この塾で、勝は、 「万国公法」 の存在や内容についても、多少の講義はしたはずである。
船舶はその国の領土であるという新知識がこの当時世間に広まったが、卸元は、神戸の勝だったかもしれない。つまり、船を持つことによって、そのぶんだけ日本が広くなる、という言い方は攘夷論への鎮静剤として有効だったと思える。

以下の挿話は、よく出来すぎている。
竜馬の同藩の郷士で檜垣直枝 (ヒガキナオエ) という者がいて、土佐勤王党に加盟し、のち藩の獄に下って激しい拷問に遭った。明治になり、新政府の警視になったりした。
その檜垣の差料 (サシリョウ) は短かった。
竜馬が、その身長のわりには短い刀を差していたので、檜垣はその真似をしたのである。
ところが、ある機会に竜馬に出会うと、竜馬は懐からピストルを出してみせた。檜垣はこのあと手をつくしてピストルを手に入れ、つぎに竜馬に会った時にそれを見せた。竜馬は笑って、
「オラは、ちかごろ、これさ」
といって、万国公法を見せたという。
今の国際法のことである。それが冊子としてどういう形をしていたのかわからないが、ともかく竜馬は万国公法に強い願望を持ち、この法に拠って護身も出来、国も守れると思っていた節がある。
むろん、竜馬は、船乗りの実務として、海洋秩序に関する慣習には多少とも通じていた。
彼は、後、長崎で、浪人による結社として海援隊をおこす。

慶応三 (1867) 年四月二十三日夜、海援隊の伊呂波丸が東航中、讃岐沖で、西航してきた紀州藩汽船明光丸に衝突され、備後鞆 (ビンゴトモ) 沖で沈没した。
伊呂波丸に過失はなかった。同船の当番士官が、明光丸の白色のさんばし檣灯 (ショウトウ) と緑色の右舷灯をみとめ、左転して避けようとしたところ。明光丸は無法にも右旋してそのまま伊呂波丸の右舷に突っ込んだ。明光丸は887トンで、伊呂波丸の五倍も大きく、小船の伊呂波丸はひとたまりもなかった。
そのあとの竜馬の行動は、いかにも万国公法的だった。彼は明光丸に飛び移り、航海日誌をおさえ、かつ衝突時に甲板上に一人の士官もいなかった事実を相手に認めさせ、さらに長崎に回航させた。
やがて海事慣習どおりに談判を進め、結局八万三千両の賠償を紀州藩に約束させた。

海援隊は、場合によっては “私設海軍” にもなるという印象があったが、日常的には海運と貿易の結社だった。この時代、世間のほうも海軍と商船のイメージが未分化だったようにもみえる。
徳川慶喜による大政奉還の後、竜馬が薩摩の西郷隆盛に、自分は新政府の官吏にはならない、 “世界の海援隊” でもやりたい、言ったということからみても、彼の関心は商船のほうにあったのだろう。
ついでながら、スペイン史や英国史では海軍が孤立して存在したということはなく、商船隊の保護として発達した。
竜馬は勝から海軍を学びつつ、商船のほうに自分の将来像を見ていたとすれば、元来、商船隊があってこその海軍であるという発達史の基本を、彼は一身で感じ取っていたといえそうである。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (二) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ