〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/02 (日) 東 京 遷 都

大正六 (1917) 年、 『東京奠都 (テント) の真相』 (岡部精一著・仁友社刊) という本が出た。文章に漢文調の客気があるものの、すでに文献史学の時代だけに資料の扱い方が手堅い。
ついでながら、署名の奠という字は、解字すると神前に捧げる酒つぼが机に載っている形である。首都には社稷 (シャショク) (古代中国で、国を治める宗廟のこと) がるため、遷都の事でありながら、すこし神聖感をもたせて、著者は奠都という。
もっとも、明治早々の官における用語は、今と変わらず遷都だった。遷とは、単に移すということである。

明治維新のことだが、この成立に最大の功があったのは、徳川慶喜であると言っていい。
ただこの十五代将軍は、日本国の政権という大荷物を京都御所の堀の中に投げ込んだだけで、さっさと大坂城に去り、ついで江戸へ帰った。当たり前のことだが、金や役所までつけて政権を渡したわけではない。
このため、京にいる薩長など各藩の首脳は、政権という大荷物をとりまいて、一時当惑した。もともと薩摩の西郷や大久保の予定では、討幕によって革命を果たすつもりだったが、慶喜の大政奉還によって肩透かしされたのである。
京には役所もなかった。
当座、御所のなかの施薬院を使ったり、また公家筆頭の九条家の屋敷を、 “太政官代” と呼んで、寄合いに使ったりした。
九条邸は堺町御門 (サカイマチゴモン) のそばにあり、公卿屋敷としては一番広かった。それでも江戸の大名屋敷の大きさと比べようもない。
この小さな九条邸が革命政権のいわば最初の政庁だった。
「どうも、手狭だ」
と、嘆くうちに、遷都論が私 (ヒソ) かに論ぜられるようになった。
むろん、公然とは論議できない。古来、みやこは京都だったし、遷都を考えるだけでも不逞不遜のそしりをまぬがれなかった。
そんななかで、まず薩摩の兵学者伊地知正治 (イジチ マサハル) が大坂への遷都を論じ、意見書を書いた。
徳川慶喜が大政奉還をした直後の慶応三年十一月のことで、まだ慶喜その人は大坂城にいた。
伊地知建白書は、まず京都が 「土地偏少、人気狭隘 (ジンキキョウアイ) であることを述べ、ついで京都御所が小さすぎることにおよぶ。
この人は軍略家として西郷隆盛に買われたいたものだが、さほど大きな構想力や想像力を持つ人ではなかった。
意見書では、大坂城の本丸を皇居とする、としている。さらには二ノ丸に百寮を設ける、という。おそらく伊知知の脳裡に太閤伝説があって、大坂城を買いかぶっていたのにちがいない。伊知知が百寮を設けるというあたに、大阪府庁やNHKがある。
大坂城は、十六世紀の秀吉の時代でこそこの城は世界の耳目を驚かすほどに大きかったが、江戸二百数十年の経済社会の成長を経た慶応三年の日本のサイズにはとても適いそうになく、とくに大坂城二ノ丸に多くの政府機関を置くなどは、ベビー服を関取に着せようというにひとしい。
「大和に遷都しよう」
という論もあったらしいが、これは、やや神秘論に属する。神武の昔にかえろうという国学イデオロギーから出たもののようで、奈良県には大人口を養う水流がなく、さらには海港も持たなかった。

この時期、薩摩の大久保利通が、すでに人々から重んじられていた。
大久保もまた遷都論を蔵していたが、その慎重な性格から、他に洩らさなかった。
やがて大坂への遷都という声が出始めてから、それに同じた。
これは推量だが、大久保にとっての大阪遷都案は、百年の大計から出たわけではなく、当座の現実認識から出た一種の暫定案だったのではないか。

大久保が、大坂への遷都を口頭で申し述べるのは翌年 (明治元年=1868年) 正月十七日で、伊地知意見書から二ヶ月を経ている。
この間、鳥羽伏見のノ戦いという大変動があり、大坂から縦隊で攻めのぼってきた幕軍を、少数の京都側 (薩長土肥) が破った。大久保の意見はその事態を踏まえている。

が、予想される長期戦 (戊辰戦争) において薩長が勝ち抜いてゆくという保証はなかった。
大阪にいた慶喜は軍艦に乗って江戸に帰った。もし彼がその気になれば、甲信越から関東・東北の諸侯に号令することもできるのである。
それにひきかえ、新政府の方は、政権とは名のみであった。租税徴収の能力もなく、人民も持たず、直轄軍もなかった。さらには、金もなかった。
大久保の大阪遷都はそういう現実に立ち、ひとまず鳳輦を大阪に進め、新政府が始まったことを内外に認識させようとするものだったのだろう。
それ以上に緊急のことは、金だった。大坂の富商たちから寄付を集め、今後の戦費を整えようとした。

当然ながら、公家の多くは京に固執し、遷都に反対した。
いま天子を擁して大坂に行こうとするのは陰謀である。薩長相携えて天下を制せんとするものである、と岩倉具視にかみついた佐幕派の公家もいた。
結局、大久保は遷都という言葉を避け、巡行とし、大坂の本願寺別院を行在所 (アンザイショ) にする、ということにした。
出発は三月二十一日ということになった。

それよりすこし前の三月十日、
「江戸寒士 前島来輔 (マエジマ ライスケ)
という署名で、大久保の宿所に投書をした者があった。
みると、大きな構想力を持った意見で、精密な思考が明晰な文章でもって述べられており、要するに大坂は非で、江戸こそしかるべきであるという。
大久保の卓越した決断力が、このとき鮮やかに躍動した。彼はこの一書生の投書の論旨に服し、江戸をもって首都とするに決めた。
“江戸寒士” の投書の要旨は、今日蝦夷地 (北海道) が大切である、浪華 (ナニワ) は蝦夷から遠すぎる、と先ず言う。
ついで、浪華の港は小船の時代のもので、海外から来る大艦巨船のための修理施設がない。江戸には、横須賀の艦船工場がある。修理工場があってこそ安全港といえる。
さらに浪華は市中の道路が狭く、郊外からの野が広くない。その点、江戸は大帝都をつくる必適の地である。
浪華に遷都すると、宮城から官衙 (カンガ) 第邸 (ダイテイ) 学校をせべて新築せざるをえない。江戸にはそれがすでに備わっている。
浪華はべつに帝都にならなくても、依然本邦の大市 (ダイシ) である。江戸は帝都にならねければ、百万市民四散して、一寒市になりはてる。

この著者が、明治の郵便制度の創始者前島密 (ヒソカ) (1835〜1919) であったことを大久保が知るのは、明治九年になってからのことである。大久保が前島密という希代の制度立案者を前に、当時を述懐し、あの投書の主は君と同じ姓だが、いったい誰だったろう、と言ったとき、はじめて前島は自分であったことを明かした。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (一) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ