〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/01 (土) 師 承 の 国

思想というのは、結晶体のようなものであらねばならない。あるいは機械のように、時には有機化合物のように論理が整合されていなければならないのだが、その意味で、日本における最初の 「思想」 は、九世紀初頭、空海 (774〜835) が展開した真言密教といえる。
むろん宗教だから、論理の整合といっても、ツバでくっつけたような部分や、マンダラなど視覚的なものが採用されたりもする。また指で印を結ぶしぐさや、真言を唱える声、あるいは心に本尊を観ずるイメージなどといった多様な要素も加わっている。ともかくもすべてが即身成仏 (ソクシンジョウブツ) というただ一点の目的に向かって集中されているのである。

空海の思想が、右の意味においてあまりにも完璧だったために、後進に独創という謀反気 (ムホンギ) を失わせた。
後進たちは、ひたすら宗祖をお大師さんとして鑽仰 (サンギョウ) するしかなかった。
ひとつ困ったことは、空海が生前、生人 (ショウジン) のまま仏になった (即身成仏した) ことである。弟子達にとって、空海は先人としての叩き台にならず、これを拝跪 (ハイキ) するしかなかった。
空海とその弟子の関係が、多分にその後の日本における師弟関係の軌範になってしまったのではないかと思ったりもするのである。
なにしろ日本人が天地と人間について理論的に考える思考の歴史は、空海と、彼と同時代の最澄 (767〜822) から始まるのである。ついでながら、双方とも “宗祖仏教” の開祖になったが、それ以前の奈良朝の仏教には宗祖というものがいなかった。

ところで、最澄は、空海に比べ、師としての在り方が違っている。
最澄は、唐から天台宗をもたらしたものの、その膨大な教典や解釈などの資料を整理したり具体化したりするゆとりのないまま死んだ。
彼の天台宗は、密教に対して顕教だったとし、彼自身、きわだって顕教的な性格でもあった。
顕教とは、目や耳でとらえることができる体系をさす。また、密教には、教祖がいない。教祖といえば絶対の真理 (法心 (ホッシン) ) がそれで、この点、顕教は歴史的存在である釈迦を教祖とし、諸経典も、読んで意味の通りというものなのである。密教が、心身ありったけで感じねばならないのに対し、顕教は読んでわかるものといっていい。
自然、最澄は空海と違い、弟子達から神秘化されず、されようとも思っていなかった。
彼は、日本史における一大精神文化財ともいうべき叡山を開いた人なのだが、今日叡山の最澄の廟に参って現世利益を願う人はいないのである。このことは、福沢諭吉や大隈重信の墓に詣って大学合格の祈願をする者がいないのとかかわりがない。
その点最澄はスマートなもので、生前も死後も、一個の知性として存在し、それ以外の神秘的属性を持たなかった。

最澄の死後、弟子あるいは後世の弟子達は、いそがしかった。最澄が残した風呂敷包みをそれぞれが解き、経や論や疎 (ソ) (註解書) を取り出しては自分流に読み、自分の頭で考えた。
そのような、いわば各自勝手な (あるいはおのおのによる暗中模索の) “研究” が三世紀も続き、ようやく十三世紀の鎌倉時代、叡山を下りた天才達によって日本独自の仏教が開花するのである。
たとえば、叡山に存在した浄土関係の経典から法然が浄土宗をおこし、親鸞が浄土真宗をおこした。また法華経関係の経典から日蓮が出た。
十三世紀に中国から入った禅でさえ、もとは叡山から出たといえる。のち入宋して臨済宗をおこす栄西 (エイサイ) や曹洞宗をおこした道元も、叡山で学んだ人々であった。
このように、叡山における思想上の生産性の豊かさは、最澄が叡山をドグマの府にせず、同時代のヨーロッパの大学ほどの開放性を残したからといえる。

ところが、せっかく日本化された仏教が誕生したのに、禅を除き、それぞれの宗祖たちは、最澄を真似ずに空海を真似た。このため、思想は再び生産力を失った。同時代以後のローマ教会の歴史からみれば、日本仏教はその後、ひたすら澱み続けた。
その原因の一つに師承という悪しき伝統がある。師承とは、鎌倉から江戸期にかけて、普通に使われていた言葉で、 “我流” の対語ともいえる。
道元は 『正法眼蔵 (ショウホウゲンゾウ) 』 の中で師承を肯定して 「師にあらざれば体達すべからざる」 と言っており、筋目の師につかねば身につかないという意味のことを述べた。そてはそれでもっともなことなのだが、時を経て、師承の意味は鉛のように重くなった。その体系を誰から受けたとか、ということが重要になり、また師の名声によって弟子の生涯の大小が決まったりした。さらにはこの悪習は、師の説くことから一歩も離れてはならないという閉鎖性を重くする作用もした。
もっとも親鸞だけは、 「弟子一人ももたずさふらふ」 ( 『歎異抄』 ) として教団を否定したが、子孫の蓮如が、十五世紀、遠祖の親鸞をかついで本願寺という一大教団をおこした。

カトリック教会が、世々の時代思想と正面から対決し、血みどろの神学史を織り上げ、これによって常に人間の世から離れずにいつづけていることに比べると、鎌倉期に出発した日本仏教は、停頓保全を選び、師承を偏重し、たえず経営安泰主義でやってきた。
私は日蓮宗に暗いから例としてあげないが、明治という文化大革命期でさえ、各宗派は思想的刺激をおぼえなかったようで、ひたすら保全だけに務め、寺が食えればいいという姿勢を保ち続けた。
思想的反応は、わずか二例だけあった。まず、浄土真宗の西本願寺が明治中期、反省運動を起こしたことである。
当時、横浜や東京で布教を始めていたキリスト教の神父や牧師達の真面目さは際立っていた。本願寺の有志たちはこのことに驚き、おれたちはどうしてこうも不真面目なんだろうと、小学生のように反省した。
まず、おれたちは酒を飲みすぎる、ひとつ飲まないことから始めようじゃないか、という合意のもとに 「反省会」 というものが生まれ、明治二十年、 「反省会雑誌」 (のち 「反省雑誌」 に改題) を出した。
「禁酒進徳」 をモットーとし、いわばお行儀良くしましょうという子供っぽい運動だったから、思想的深まりを見せるまでに至らぬまま終った。ついでながらこの雑誌は十年続き、明治三十二年、 「中論公論」 という名になり、やがて本願寺と無縁になって、別な発展をした。
同じ浄土真宗の東本願寺の場合は、明治と言う時代を思想的に受け止めた唯一の例をつくった。
教団の金で秀才に学費を出し、とくに清沢満之 (マンシ) (1863〜1903) に期待した。清沢は明治十五年に大学予備門に入り、のち西洋哲学を専攻した。とくにヘーゲルを学び、そのとりこになることなく、その方法意識について欠陥を批判したりもした。
その上で、ヘーゲルの弁証法を以って、仏教思想と親鸞思想を基礎づけ、いわば、哲学的に近代化したのである。
清沢の活動がなければ、親鸞は “お他力さん” などと呼ばれる北陸・東海の篤信者に取り囲まれただけの泥臭い存在に終っていたに違いない。
この清沢の新解釈がなければ、親鸞の 『歎異抄』 が、昭和初年以後、知識人にとってつねに新鮮な書として印象付けられることもなかったはずである。くり返すが、今日親鸞といえば、ヘーゲルと並べさせても、印象的に違和感を感じさせないというようにしたのは、清沢の力によるものだった。

武道もまた、思想と同様、論理の整合がなければ成り立たない。
室町期から興った諸武道は、江戸期に入って諸流派とも師承の芸になった。さらに密教の影響が入って、無用の口伝 (クデン) や秘伝を設け、神秘化された。
剣術の分野で、この伝承をこわし、教授法を合理化し万人が参加出来る体技にしたのは、江戸末期の千葉周作 (1860〜1938) だったことは、よく知られている。
武道のような体技も含めて、この師承の国で、師承を基礎にしつつも伝統に新しい大展開をみせた ─ 明治までの ─ 例は、私が理解する範囲で、千葉、清沢、嘉納の三人だけだったように思える。
三人とは、あんとも少なすぎるようである。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (一) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ