〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/11/30 (金) 会 津

会津藩 (福島県) について書く。
江戸時代、この藩は磐梯山の裾野に広がる大きな盆地を根拠地とし、会津若松を城下として、二十八万石 (幕末には四十余万石) を領していた。
藩祖は保科 (ホシナ) 正之 (1611〜72) で、徳川家康の孫にあたる。
正之はまじめで律義 (リチギ) 、民生への思いやりもあり、その人柄がそのまま藩風になった。
藩士教育もゆきとどいていて、三百諸藩の手本のようになった。
親藩であったから、外様藩のように閥閣の機嫌を取ったるしる必要がなかった。従って政略の能力を欠き、むしろそれを卑しむところもあった。
そのような藩が、幕末の京という、政争の渦中に投じこまれたのは、歴史に魅入られたとしか言いようがない。

教科書風に歴史を復習すると、幕末の京は、一時期、無政府状態に陥った。もしそういうことがなければ、会津藩の上にのどかな日々がなおも続いたに違いない。
ときに、日本国政府である幕府は、将軍の名においてアメリカなどと和親条約を結んだ。
これに対し、在野世論と長州などの雄藩が鎖国と攘夷を主張し、幕府と激しく対立した。
幕府の大老井伊直弼はこれらの世論に対し、大量処刑で臨んだものの、彼自身が江戸城の桜田門外で浪士団に襲われ、殺されることによって、幕威が墜ちた。

反幕の気分は大いにあがった。
攘夷派の志士たちや長州人たちが多く京都に集まり、天誅という名の暗殺を流行させ、既存の所司代も奉行所も、手の施しようがなかった。
明治維新の六年前の文久二 (1862) 年のことである。

幕府は、非常治安機構ともいうべき京都守護職を置くことにした。
白羽の矢を、会津藩主松平容保 (カタモリ) に立てた。
この藩の幕府への忠誠心と律義な藩風と、非政治的性格が見込まれたのである。
容保は、おどろいた。彼といえども幕府の統制力が地に堕ちていることは知っていた。
「わが城邑 (ジョウユウ) は東北に僻在し」
などと、何度か断った。
容保のためらいに対し、幕閣の一部で、
── 会津公は、一身の安全を考えている。
などという噂が立った。容保は、結局、この命を承けることになった。

在京六年、業火の中にいるような日々だった。
当初、浪士結社の新選組が、この藩の傘下に入った。新選組会津藩との関係は戦国時代の “陣借り” という慣習を思わせる。合戦の時浪人が思わしい大名の陣屋のしみを借り、武功の次第では取り立ててもらうことを期待するのである。
ただし新選組の場合は、幕府が会津藩に預けた、という形をとった。
結局新選組は、治安行動の爪牙 (ソウガ) となり、倒幕家たちのうらみを会津藩に集中させることになった。

その時期の京は、政略が渦を巻いていた。
なかでも薩摩藩が多数の藩士を京に駐在させ、ひそかに革命化した。
はじめ会津藩は薩摩藩を秩序維持派と見、これに心を許し、たとえば宮廷における長州系の過激公卿を共に一掃したり、長州軍が大挙武装入洛した時も友藩としてこれを防いだりした (蛤御門の変)
ところがその翌々年には、薩摩藩は内々で一変した。それまで国許に閉じこもっていた長州藩と密かに攻守同盟を結び、二年後の明治維新への基礎をつくるのである。
「薩摩だけは許せない」
と、将軍慶喜が、のちのち述懐したのは、この鮮やかな革命政略をさしている。

慶喜は慶応三 (1867) 年、政権を朝廷に返し、京都から大阪に退いた。
薩摩藩は京にあって朝廷を擁し、長州軍をその国元から迎える一方、さらに土佐藩とも同盟の内約を結び、京を拠点とする軍事勢力を急編成した。
慶喜は、大阪にいる。
多数の会津藩士が、慶喜を護衛していた。
これに対し、京の薩摩藩は、旧幕府側から戦いを始めるように、さかんに挑発した。戦いの勝敗を決めるものは兵器であることを薩摩側はよく知っていた。
かれらはすでに新式の連発従を揃え、旧幕軍からの攻撃を待っていた。会津藩兵が、挑発に乗った。
会津藩兵らは陳情という形式を取り、新選組や幕府歩兵と共に京街道を大挙北上した。やがて鳥羽・伏見で京側との遭遇戦になり敗北した。
この戦いは局地戦に過ぎなかった。旧幕府はなお強大な勢力を擁していたから、戦おうと思えばどのようにも戦えた。
が、薩摩藩はこの小さな戦勝を、四方に大きく宣伝し、このため近畿とその西の諸藩はあわただしく旗幟 (キシ) を新政府側に変えた。
慶喜自身までが、この小さな敗北によって自らを変えた。
彼は、心の中で、旧幕府も会津藩も捨てた。夜陰、容保ら数人を連れて大坂湾の旧幕軍艦に乗り、江戸に向かった。その艦上で、老中の板倉勝静 (カツキヨ) が、たかが鳥羽・伏見で負けたぐらいで、どうしてあわただしくお逃げ遊ばします、と不満をもらしたとき、
「わが方に、薩摩の西郷・大久保のごとき者がいるか」
と、政略で負けた旨のことをいった。
この時からの慶喜の政略主題は、後世に “賊名” を残さないという一点に絞られるようになった。彼の意識の上では組織を捨て、個人になっていた。以後、慶喜は、一個人の政略芸に終始する。
彼は江戸城に戻ると恭順を標榜しただけでなく、ついに勝海舟に全権を与えて江戸を開城し、自らは実家の水戸に退隠した。旧幕府組織は、海舟の表現を借りると、シツケ糸を抜いたように解体された。
いわば慶喜に捨てられた会津藩としては、将軍への忠という正義までが、行き場のないものとなった。あとは全藩が武士の意地だけで生きざるを得なかったのである。
新政府に側は ─ 少なくとも薩摩の指揮者西郷隆盛の意図では ─ 慶喜の首を刎ねることによって革命の樹立を世間に周知させるつもりであった。が、そのことが慶喜によって外されたため、新政府としては、振り上げた拳の下ろしようがなくなった。
結局、会津藩が、慶喜の形代 (カタシロ) にされた。
以後、戊辰戦争のなかで会津藩は鶴ケ城を拠点としてよく戦い、籠城戰のすえ、降伏した。そのあと、藩ぐるみ下北半島の荒蕪の地にうつされた。日本史上、これほど大規模な流刑はなかった。
明治後も、会津人や会津地方は割りを食うことが多かった。
会津若松が県下最大の街でありながら、福島県庁が置かれることはなく、また偶然かどうか国公立の高等教育機関も設けられなかった。

去年 (1993) 、県立の単科大学が開学した。明治後、会津若松市に置かれた最初の高等教育研究機関である。
この大学は、校舎の設計も内容も斬新で、明治後、たわめられていたバネが、一挙に単科大学という形になって撥ねもどったような勢いが感ぜられる。例えば、研究者が広く世界から公募され、百人の教授以下のうち、六十人が外国人で、学内の公用語が日本語と英語だということだけでも、一端を察することができる。
「この日を、会津は百二十年、待っていたんです」
と、たまたま会津を訪れた私を案内しながら、旧知の宮崎十三八 (トミハチ) 氏が言った。会津人としては、大げさな感想ではなさそうである。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (一) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ