〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/11/29 (木) “ 統 帥 権 ” の 無 限 性 

以上、何回か堅苦しいことを書いてきた。ありようは、ただひとつのことを言おうとしている。昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、長い日本史の中でも特に非連続の時代だったということである。
たとえば戦後、 “天皇制” などというえぐい言葉も、多分にこの非連続的な時代がイメージの核になっている。
── あんな時代は日本ではない。
と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである。
さきに “異胎の時代” という言葉を使った。
その二十年をのけて、たとえば、兼好法師や宗祇が生きた時代と今日とは、十分に日本史的な連続性がある。また芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期と今日とは文化意識の点でつなぐことができる。つなぐとは単純接着という意味であり、また電流が通じるという意味でもある。
「司馬さんには、昭和の戦争時代が書けませんね」
と、いつだったか、丸谷才一氏に言われたことがある。
情けないが、うなずくしか仕様がない。

私事を言うと、私はソ連の参戦が早ければ、その当時、満州と呼ばれた中国東北地方の国境の野で、死んでいたはずである。その後、日本にもどり、連隊と共に東京の北方に駐屯していた。もしアメリカ軍が関東地方の沿岸に上陸してくれば、銀座のビルわきか、九十九里浜か厚木あたりで、燃え上がる自分の戦車の中で骨になっていたに違いない。そういう最期はいつも想像していた。
あの当時、いざというとき、私どもが南下する道路の路幅は、二車線でしかなかった。その状況下では、東京方面から北関東へ避難すべく北へたどる国民や彼等の大八車で道という道がごったがえすにちがいない。彼等をひき殺さないかぎりどういう作戦行動もとれないのである。さらには、そうなる前に、軍人よりも先に市民達が敵の砲火のために死ぬはずだった。何のための軍人だろうと思った。
その時期、それやこれやの想像で頭がはちきれそうになっていたのだが、映画が終るように、それらの想像が終了したのは、敗戦の日だった。場所は、栃木県佐野だった。
敗戦の数ヶ月前、私どもがいた宿舎は小学校で、この宿舎に来て最初にやったのは、敵の空襲からの被害を避けるために付近の山々に穴を掘って戦車を隠すことと、校庭に小さな壕を掘って、対空用の機関銃座をつくることだった。その作業中、私は、しきりに謡曲の 『鉢木 (ハチノキ) 』 のことをおもった。
鎌倉の昔、無名の旅の僧 (じつは北条時頼) のために宿をし、鉢の木を焚いて暖をとらせた牢浪の佐野源左衛門尉常世 (ゲンザエモンノジョウツネヨ) のことである。源左衛門尉がわび住まいしていた佐野とはこの土地ではないかと思うと、まわりの山河が沁み入るように愛おしくなった。
その後、場所について異説があることを知ったが、この時期はこここそ “佐野のわたりの雪の夕暮” のあの佐野であると思い込んでいた。
やがては、源左衛門尉やその妻、あるいは平明な良心だけを政治の心としていた時頼などが、私の中で歴史的日本人の代表のように思われてきた。というより、すでに日本に帰りながら、日本のことが恋しくなっていた。さらに言えば、自分が身を置いている進行中の日本が本当の日本なのかと思ったりした。
降伏後も、数週間、この野ですごした。
(日本や日本人は、昔から今のようなぐあいだったのか)
という茫々とした思いを持った。ひょっとすると昔の日本や日本人は違っていて、昭和という時代だけがおかしいのではないか、と思ったりした。

それより前、私は当時、満州と呼ばれた中国東北地方にいた。そのころノモハン事変 (昭和十四年) のことがたえず脳裡にあった。
ひとつは、私どもの部隊の先祖 (といってもわずか四、五年前の先祖だが) がこの凄惨な戦闘に参加し、粉々にやられたということもある。それに、私どもの仮想敵はソ連だったし、具体的にはソ連の戦車だった。常住、それを想定して訓練がおこなわれた。
私が訓練を受けた四平街の戦車学校の校庭のすみの草むらの中に、破壊されたソ連のBT (ベーテ) 戦車が放置されていた。操縦装置その他は日本の戦車に比べて大量生産向きのごく雑な車体だったが、兵器の命である攻撃力 (砲火) と防御力 (装甲) においてすぐれていた。
ノモハン当時、日本の八九式中戦車や九七式中戦車がこれを射ってもタドン玉を投げつけたほどの効果しかなかったが、むこうの弾はこちらを易々と貫いた。あの事変では戦車の数も、こちらが一に対してソ連は十の勢力を持っており、結局、戦闘の進行中、関東軍は戦車隊の教育と保全のためという奇妙な論理を立てて、戦場から戦車部隊だけを撤退させた。それが私どもの “先祖” だった。
結果として、ノモハンの草原上の日本軍は死傷七十パーセント以上という世界戦史にもまれな敗北を喫して停戦した。
この事変は、日本から仕掛けた。しかも日本軍の国家的意思によってやったものではなかったのである。
関東軍参謀の独走によっておこなわれたもので、参謀の元締めである東京の参謀本部でさえ事後に知らされた。
ノモハン事変は、そのごく一例に過ぎない。
「参謀」
という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略をたくらんで国家に追認させてきたのが、昭和前期国家の大きな特徴だったと言っていい。
たとえば、昭和三年には、関東軍高級参謀の河本大作が、幕末の志士気取りになって、一個人でもって国家行為を起こすべく企図し、奉天軍閥の首領張作霖を爆殺した。ついで昭和六年、同軍参謀石原莞爾らが “満州” の独立を密かに議し、満鉄の一部を爆破 (柳条湖事件) し、この爆破を中国側がやったとして満州事変を起こした。

昭和前期の日本というのは、統一的な意思決定能力を持った国家であったとは思われない。
私は、ついに書くことはないだろうと思うが、ノモハン事変を、ここ十六、七年来調べてきた。生き残りの人達にも、ずいぶん会ってきた。
当時の参謀本部作戦課長で後に中将になった人にも会った。この人は、さきごろ逝去された。六時間陽気にほとんど隙間もなく喋られたが、小石ほどの実のあることも言わなかった。私は四十年来、こんな不思議な人物に会ったことがない。私はメモ帳に一行も書かなかった。書くべきことを相手は一切喋らなかったからである。
これとは逆に、戦場で生き残って、そのあと免職になった一連隊長を信州の盆地の温泉町に訪ねたときは、まだ血が流れ続けている人間を見た思いがした。その話は、事実関係においては凄惨で、述懐において怨嗟に満ちていた。うらみはすべて、参謀という魔法の杖の持ち主に向けられていた。他者から見れば無限に近い権能を持ちつつ何の責任も取らされず、取りもしないというこの存在に対して、しばしば悪魔!と呼んで絶句された。
「元亀天正の装備」
という形容を、この大佐は使われた。当時の日本陸軍の装備についてである。いうまでもなく元亀天正とは織田信長の活躍時代のことである。この大佐とその部下達はその程度の装備をもってソ連の近代陸軍と対戦させられ、結果として破れた。その責任は生き残った何人かの部隊長にかぶせられ、自殺させられた人もあった。そのころの日本陸軍の暗黙の作法として、責任を取らせたい相手の卓上に拳銃を置いていおくのだが、右の大佐はこのばかばかしさに抵抗した。このため、退職させられた。
しかし、この悲惨な敗北の後、企画者であり演出者であった “魔法使い” たちは、転任させられただけだった。たとえば、ノモハンの首謀者だった少佐参謀の辻政信は上海に転任し、その後、太平洋戦争では大きく起用されてシンガポール作戦の参謀になった。作戦終了後、その魔法の機能によって華僑の大虐殺をやり、世界史に対する日本の負い目をつくることになる。

話は、変わる。
Aさんという呉服屋の番頭をしている小柄な老人は、私は未熟児でございまして、と自分の体力のなさについて、身も世もなくかきくどく人である。見たところ、小学生ほどの腕力もなさそうで、顔までが、茶道師範のお婆さんのようにやさしい。そういう人ですら、大戦の末期には徴集され、関東軍の一兵士になった。その上、ソ連によってシベリアに送られ、奴隷労働をさせられた。多くの人々が栄養失調などで死んだが、この虚弱な人は命冥加にも生きて帰った。
「よほど楽な労働にまわされたのですね」
そうきくとそう聞くと、答えが意外だった。
「いいえ、岩山の岩を割らされておりました」
話が岩割のことになると、Aさんの顔に血がのぼり、情熱的な目つきになった。兵隊の中には学者がいるものでございます、どんな岩にも、理 (スジ) というものがある、大理石の理、そいつを探し出して、その理に沿ってノミを叩き続けてゆくといつかは大割れに割れるものだ、そういうことを申すものでございますから、みなでその通りに致しますと、本当に割れました、そいう理でもってシベリアの岩をずいぶん割ってまいりました、と言った。
「その学者は、前職は何でしたか」
「錺職 (カザリショク) でございました」
後年、藤堂明保 (トウドウ アキヤス) 氏や山田勝美氏の本 ( 『漢字語源辞典』 『漢字の語源』 など) を読むと、理とはこの錺職がいうような意味を持っている。山田勝美氏によると、理のツクリの里の音は 「籬析 (リセキ) (はなれる) をあらわし、これに玉へんをつけて理になると 「玉の裂け目、筋模様」 をわらわす文字になる、という。 中国の昔、細工人が玉器を作る場合、玉の裂け目やスジ模様 ─ 理 ─ に従って細工をしたというのである。錺職のいうところは、まことに理にかなったことだった。

以上、われながらとりとめもなく書いている。
私自身の考え方がまだ十分かたまらずに書いているからで、自分でもいらいらしている。
ともかく自分もその時代に生存した昭和前期の国家が何であったかが、四十年考え続けてもよくわからないのである。よくわからぬままに、その国家の行為だったノモハン事変が書けるはずがない。
── それは天皇制ファッショの時代だったから。
という術語を使ってしまえば通過はできるが、理解は出来ない。
たとえば、ちゃんとした統治能力を持った国なら、泥沼に陥った日中戦争の最中に、ソ連を相手にノモハン事変をやるはずもないし、しかも事変のわずか二年後に同じ “元亀天正の装備” のままアメリカを相手に太平洋戦争をやるだろうか。信長ならやらないし、信長でなくても中小企業のオヤジさんでさえ、このような会社運営をやるはずもない。

この魔法の岩にも、さきの錺職のいう理があるはずで、愚かなことだが、ごく最近になってその理が、異常膨脹した昭和期の統帥権の “法解釈” ではないかと思うようになった。
明治憲法はいまの憲法と同様、明快に三権 (立法・行政・司法) 分立の憲法だったのに、昭和になってから変質した。統帥権がしだいに独立し始め、ついには三権の上に立ち、一種の万能性を帯びはじめた。統帥権の番人は参謀本部で、事実上かれらの参謀達 (天皇の幕僚) はそれを自分達が “所有” していると信じていた。
ついでながら憲法上、天皇に国政や統帥の執行責任はない。となれば、参謀本部の機能は無限に近くなり、どういう “愛国的な” 対外行動でもやれることになる。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (一) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ