〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/11/28 (水) “ 雑 貨 屋 ” の 帝 国 主 義 

以下が、夢だったのかどうかは、わからない。ともかくも山を登り続けて、不意に浅茅ケ原に出てしまった。
こういう場所を昔の修験道は好んだ。まわりを、山なみが蓮の花びらのように取りまいているのである。ただその浅茅ケ原だけは色がない。
そこに、巨大な青みどろの不定形なモノが横たわっている。
その粘膜質にぬめったモノだけは、色がある。ただし、ときどき褐色になったり、黒い斑点を帯びたり、黒色になったりもする。割れてささくれた爪もそなえている。両眼が金色に光り、口中に牙もある。牙は、折れている。形は絶えず変化し、とらえようがない。僅かに息づいているが、言えそうなことは、みずから力ではもはや人里には出られそうにないということである。
君はなにかね、と聞いてみると、驚いたことにその異胎は、声を発した。 「日本の近代だ」 というのである。

ただしそのモノが自らを定義したのは、近代と言っても、1905 (明治三十八) 年以前ということではなく、また1945 (昭和二十) 年以後ということでもない。その間の四十年間のことだと明晰に言うのである。つまりこの異胎は、日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦までの時間が、形になって、山中に捨てられているらしい。
「おれを四十年と呼んでくれ」
と、そのモノは言った。
「君は、生きているのか」
「おれ自身は死んだと思っている。しかし見る人によっては、生きていると言うだろう」
もっとも人里へ降りて行って害をもたらすということはもうあるまいが、とも言った。
歴史もまた一個の人格として見られなくもない。日本史はその肉体も精神も、十分に美しい。ただ、途中、なにかの異変が起こって、遺伝学的な連続性を失うことがあるとすれば、
「おれがそれだ」
と、この異胎は言うのである。
このモノは気味悪く蠕動 (ゼンドウ) していて、うかつに踏んづければ、そのまま吸い込まれかねない感じもある。
私は十分距離を置き、子供のような質問をしてみた。
日本は、日露戦争の勝利以後、形相を一変させた。
「なぜ日本は、勝利後、にわかづくりの大海軍を半減して、自らの防衛に適合した小さな海軍にもどさなかったのか」
ということである。
日露戦争における海軍は、大規模な海軍たらざるを得なかったことは、 『坂の上の雲」 (文芸春秋刊) を書いた私としては、十分わかっているつもりである。ロシアのウラジヲストックにおける艦隊を討ち、かつ欧露から回航されて来る大艦隊と戦うには、やむなく大海軍であることを必要とした。その応急の必要に迫られて、日本は開戦前、七、八年の間に、世界有数の大海軍を建設した。
ロシア海軍はこれによってほぼ潰滅し、再建には半世紀以上かかるだろうといわれた。
大海軍というのは、地球上の様々な土地に植民地を持つ国にしてはじめて必要なものなのである。
帝国というのが収奪の機構であるとすれば、十六世紀の黄金時代のスペインこそその典型だった。史上最大の海軍がつくられ、大艦と巨砲による威圧と収奪、陸兵の輸送と各地からの収奪物の運搬のためにその艦船はあらゆる海に出没した。
十六世紀末、その無敵艦隊をイギリスが破って、スペイン的な世界機構の相続者になり、機構を磨き上げるのである。
当然、イギリスは大海軍を必要とした。蒸気機関の軍艦になってからの世界の各地に石炭集積所を置いたために、港湾維持のための支配や外交がいよいよ精密化した。
しかし、日露戦争終了の時には、日本は、世界中に植民地など持っていなかったのである。
「戦後、多数の海軍軍人が残った」
そのモノは、ただそれだけで答えた。日本海海戦のような近代海戦史に類のない勝利をおさめた栄光の海軍が、自らの両手に抱えてしまった大海軍を減らすはずがなく、むしろ組織というのは、たとえ目的がなくても細胞のように自己増殖をのみ考えるものだ、という意味のことを言っているのだろうか。

そのモノの返答は、まことに短い。日本は、日露戦争終了後、五年にして、韓国を合併した。数千年の文化と強烈な民族的自負心を持つその国の独立を奪うことで、子々孫々までの恨みを買うに至ったが、当時の日本の指導者はそのことについての想像力を持っていたか、と訊いてみた。
この胎盤に似た膚質 (フシツ) のモノは、三十分ほども沈黙した。そのあと、
「あのころには、深刻な事情があった」
と、言った。ロシアのことである。ロシアはその辺境の “満州” でわずかの差で破れたとはいえ、巨大な余力を残していた。必ず報復のための第二次日露戦争を仕掛けてくる、と日本は思っていた、という。
「思っていた? 主として、誰が?」
と聞いたとき、このモノの膚質が、それまでの曖昧に濁った色から、単色に変わった。濃 (ダミ) のような青みどろだった。
「参謀本部だ」
恐ろしい声を出した。
(ひょっとすると、このモノは、参謀本部そのものではあるまいか)
ひと、そう思った。
参謀本部については、次に譲りたいが、ともかくも明治憲法下の法体制が、不覚にも孕んでしまった鬼胎のような感じがある。
といえば、不正確になる。
参謀本部にもその成長歴があって、当初は陸軍の作戦に関する機関として、法体制の中で謙虚に活動した。
日露戦争が終り、明治四十一年 (1908) 年、関係条例が大きく改正され、内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は “統帥権” という超憲法的な思想 (明治憲法が三権分立である以上、統帥権は超憲法的である) を持つに至るのだが、この時期には未だこの思想はそこまでは成熟していない。だから、日韓合併の時期では、のちの “満州事変” のように、国政の中軸があずかり知らぬうちに外国に対する侵略戦争が “参謀” たちの謀略によって起こされるという具合ではなかった。
しかし、将来の対露戦の必要から、韓国から国家であることを奪ったとすれば、そういう思想の卸し元は参謀本部であったとしか言いようがない。

さらに、質問した。このモノの四十年間の活動は、いうところの帝国主義であったのか、と問うと、
「ちがう」
と、奇声に似た高い声が帰って来た。
むろん、このモノの言う通りに違いない。外国から見れば形としては帝国主義の雛型に入るが、内実は帝国主義ですらなかったように思われるのである。
二十世紀なかばまで、諸家によって帝国主義の規定や論争やらがおこなわれたが、初歩的に言えば、商品と資本が過剰になったある時期からの英国社会をモデルとして考えるのが常識的である。過剰になった商品と、カネの捌け口を他に得るべく ─ つまり企業の私的動機から ─ 公的な政府や軍隊を使う、というやり方だが、日本の近隣においては、英国はこのやり方を中国に対しておこなった。
しかしその当時の日本は朝鮮を奪ったところで、この段階の日本の産業界に過剰な商品など存在しないのである。朝鮮に対して売ったのは、タオル (それも英国綿) とか、日本酒とか、その他の日用雑貨品が主なものであった。タオルやマッチを売るがために他国を侵略する帝国主義がどこにあるだろうか。

要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。
なにしろ、調子狂いはすでに日露戦争の末期、ポーツマスで日露両代表が講話について条件を話し合っていた時から始まっていた。講話において、ロシアは強気だった。日本に戦争継続の能力が尽きようとしているのを知っていたし、内部に “革命” という最大の敵を抱えているものの、物量の面では戦争を長期化させて日本軍を自滅させることも、不可能ではなかった。弱点は日本側にあったが、代表の小村寿太郎はそれを見せず、ぎりぎりの条件で講和を結んだ。

ここに、大群衆が登場する。
江戸期に、一揆はあったが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意に集まった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかったろうか。
調子狂いはここから始まった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。 「国民新聞」 をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園で開かれた全国大会は、参集する者三万といわれた。彼らは暴徒化し、警察署2、交番219、教会13、民家53 を焼き、一時は無政府状態に陥った。政府はついに厳戒令を布かざるを得なくなったほどであった。
私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年の間の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に ─ たとえば参謀本部に ─ 蓄電されて、以後の国家的妄想のエネルギーになったように思えてならない。
むろん、戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。また煽るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといていい。

また、朝鮮を侵略するについても、そのことがソロバン勘定としてペイすることなのか、ということを誰も考えなかった。
その後の “満州国” (昭和七年=1932) をつくったときも、ペイの計算はなく、また結果としてペイしたわけでもなかった。
「われわれは、そういう俗な計算でやったわけではない」
と、そもモノはいう。ただ、声はほとんど聞き取れなくなっている。さらに、そのモノは言った。
「君の言うペイで言えば、われわれは華北に進出したよ」
“統帥権” は、内閣から独走して、華北に謀略的に冀東 (キトウ) 政権 (昭和十年=1935) をつくったことを指しているらしい。日本からの商品が満州国に入る場合、無関税だった。この商品がこれ以後、華北に無関税で入るようになった。このため、上海あたりで芽を出していた中国の民族資本は総倒れになり、抗日への大合唱に資本家も参加するようになった。翌々年、日本は泥沼の日中戦争に入ってしまう。
“満州” が儲かるようになったというのは、密輸の合法化とも言うべき右のからくりのことをこのモノは言うのである。その商品たるや ─ 昭和十年の段階で ─ なお人絹と砂糖と雑貨が主だった。このちゃちな “帝国主義” のために国家そのものがほころぶことになる。一人のヒトラーも出ずに、大勢でこんな馬鹿な四十年を持った国があるだろうか。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (一) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ