〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/11/28 (水) こ の 国 の か た ち 

──日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている。
と、私が尊敬する友人がどこかで書いていた (正確に引用したいのだが、どの本にあったのか、記憶にない。だから著者名をさしひかえざるをえない)
この場合の思想とは、他の文化圏に入り込みうる ── つまり普遍的な ── 思想をさす。古くは仏教や儒教、あるいはカトリシズム、回教、あたらしくはマルキシズムや実存主義などを念頭においていい。
むろん、かっての日本がそういうものを生み出さなかったというのは、べつにはずかしいことではない。
普遍的な思想が生まれるには、文明上の地理的もしくは歴史的条件が要る。たとえば、多様な文化を持つグループ群が一つの地域でひしめきあい、ときに殺しあうという条件のもとで歴史が熟する (あいまいな言葉だが) と、グループ群を超えた普遍的思想が出てくる。それらが取捨されて、やがて一つの普遍的思想のもとに人々が服することによって秩序が安定を得る。
中国でいうと、古代中国の土俗の中で息づいていた家族主義が、孔子によって、大陸内部の諸民族を超えた普遍性を与えられた、という例を思いえがいてもいい。
ともかく、日本では、その種のものは自前で展開しなかった。
「そうでもないでしょう」
と、十年ばかり前、右の引用のことばと似たようなことを日本びいきのドイツ人に言ったとき、彼は美学的なことに置きかえてなぐさめてくれた。
いま世界的な傾向として、建築や室内装飾、あるいは家具に、日本人の好みが別な形に翻訳されて普遍性を持っている、というのである。
「日本人が気づいていないだけです」
彼がいうのは、木材の生地の高雅さを生かした白木の多様などを指しているらしい。また数奇屋建築の聚楽の壁を思わせるような平明な壁面、もしくは家具彫刻のわずらわしさを捨て、簡潔な形のなかに品格を見出そうとする傾向なども、日本の影響といえば言えなくはない。
しかしその程度のことなら、たいていの民族が、世界の造形思想に影響を与えてきている。
たとえば、古代の西アジアの人々が考え出した楽器が世界の楽器に影響を与えたし、また十九世紀には浮世絵が印象派の画家たちに影響を与え、さらにはアフリカの民族的な造形がピカソと彼以後の芸術家達を刺激した。

しかし、ここではそういうことを言おうとしているのではなく、人間や国家の成り立ちにかかわる思想と日本的な原形について考えている。
話がすこしかわるが、日本の古代というのは、じつにわかりにくい。
どうして大和政権が、古代日本の代表的な勢力なったかについても、わからないのである。
四、五世紀でさえ、大和政権は比較の上での大きさであって、絶対的な存在ではなかった。六世紀ごろでもなお独立性を失わない諸民族や族長もいたとみるほうが、自然である。
私どもは、そのことよりも、七世紀になって様相が一変したというほうに驚きをもってゆかねばならない。あっという間に、大和政権による統一性の高い国家が出来てしまうのである。この間、戦国乱世ふうの大規模な征伐があったようには思えず、キツネにつままれたような印象を受ける。
もっとも、この奇現象は、近代においても経験している。1869 (昭二) 年の版籍奉還がそれである。一夜にして統一国家が出来てしまった。
七世紀の面妖さについての説明は “外圧” という補助線を引いてみると、わかりやすい。一衣帯水の中国にあっては、それまで四分五裂していて、おかげで周辺諸国は安穏だった。
それが、六世紀以来、隋という統一帝国が勃興することによって、衝撃波が広がった。
日本の場合、この衝撃波は、大小の古墳を築造する族長達に対外恐怖心を共有させ、これによって、にわかに群小が大 (この場合、大和政権) を盟主にしてこれの従うという、ほとんど力学的な現象を引き起こさせることになった。
ついでながら、七世紀のこの “外圧” といっても、隋の煬帝 (ヨプダイ) が高句麗 (コウクリ) を攻める (612〜614) というふうな具体的な外圧ではなく、日本にやってきたのは、多分に情報としてのものだった。情報による想像が、恐怖になり、共有の感情をつくらせた。この点、十九世紀、帝国主義的な列強についての情報と、それによって侵略されるという想像と恐怖の共有が明治維新をおこさせたということと似ている。

まことに過敏というほかないが、統一国家のつくりかたの方も、手早い (むろん、日本だけではない。洋の東西を問わず、統一国家ができるときは、古来以来、近代に至るまで他の先進国家の体制が模倣されてきた) 。
さて、六、七世紀の統一国家のつくり方についてである。当時の大和の政治家や吏僚が、国家をつくるについての芯として考えたのは、
「律・令・格・式」
というものだった。これさえ導入すれば、浅茅 (アサジ) ケ 原 (ハラ) に組立式の野小屋でも建てるようにばたばたと国家ができると思ったのである。目の付け所に感心せざるを得ない。
蛇足ながら律とは刑法で、令は行政法的なものをさす。格は律と令の補足とか例外的な法規であり、式は律令を施行するにあたっての細則のことである。 「律令格式」 とひとことで呼ばれるものは、近代法でないながら、四者は相関し、法体系といってもいい。
律令格式は、古い歴史がありながらも、隋唐のとき、新品のような光沢を帯びて、いわば完成した。
六、七世紀の日本は、その大部分を導入した。実情にあわぬところは、多少修正された。
隋唐の律令制による土地制度は、王土王民制だった。土地も人民も皇帝独りの所有である、という思想である。
この思想は、儒教から出たものらしい。 『詩経』 にいう 「普天 (フテン) ノ下 (モト) 、王土ニ非ザルハ莫 (ナ) ク、率土 (ソツド) ノ浜 (ヒン) 、王臣ニ非ザルハ莫シ」 ということばは、当時の中国では慣用句のようなものになっていた (降って十四世紀に成立した日本の 『太平記』 にもこの慣用句が引用されている)
すでにふれたように、六世紀でもなお、今日全国の大古墳に眠っている族長達や民族の長たちのいくばくかは、なお土地・人民を私有して独立の伝統と気勢を保っていたが、土地制度を含む外来の律令制が導入されると、奇術か魔法にかかったように、それらを手放してしまった。日本史が持つ不思議なはかなさである (ついでながら、国造 (クニノミヤツコ) などと呼ばれた地方の族長たちは、新官制による郡司に任命された)
このようにして、隋唐の官制を導入しながらも、もっともユーラシア大陸的な宦官 (カンガン) は入れず、また隋唐の帝政の基本とも言うべき科挙の制も入れなかった。この二つをもし入れていてば、当時の日本は、中国そのものになっていただろう (とくに科挙の試験の制度を採用すれば、日本語までが中国語に近いものになってしまったにちがいない)
さらに大きなことは、面としての儒教を入れなかったことである。
こういえば誤解を招くかも知れない。
念のために面としての儒教などという自分勝手な概念に定義をくっつけると、学問としての儒教ではなく民衆の中に溶け込んだ孝を中心とする血族 (擬似血族をも含む) 的な宗教意識を言う。ここから、祭祀や葬礼の仕方や、同姓不婚といった礼儀や禁忌などもうまれる。それら儒教のいっさいをシステムぐるみ入れたとすれば、日本は中国そのものになったに違いない。
結局、日本における儒教は多分に学問 ─ つまりは書物 ─ であって、民衆を飼いならす能力を持つ普遍的思想 (儒教だけでなくキリスト教、回教など) として展開することなく終った。
ここで仏教について触れる必要がある。その影響は大きかったから、僅かな紙数で尽くせそうにない。後にゆずりたい。
わずかに触れるとすると、六、七世紀の日本に入った仏教は、インドからみると不思議なものだった。隋唐で成立した鎮護国家の仏教であって、あくまでも王朝や民族を守護する効能 (キキメ) としてのものだった。
平安初期の新仏教である天台・真言も、この点ではかわりがない。奈良仏教と違い、いわば救済の体系という面をもちつつも、隋唐的な鎮護国家の系譜から離れてはいなかった。
つまり、民衆個々々を骨の隋まで思想化してしまうという意味での作用はもたなかった。このことについては、インドにおけるヒンズー教に漬けこまれた民衆というゆゆしい大現象を例として考えれば、わかりやすい。
ついでながら、日本仏教における民衆とのかかわりについては鎌倉仏教という特異なものがあり、とくに浄土真宗に妙好人 (ミョウコウニン) という精神的な事象があるため、右のように一概には言い難い。しかし、一概に言い切ってしまったところで、さほど大きな誤差は出ない。
── 日本人は、いつも思想は外から来るものだと思っている。
とはまことに名言である。ともかく日本の場合、たとえばヨーロッパや中近東、インド、あるいは中国のように、人々の全てが思想化されてしまったというような歴史をついに持たなかった。これは幸運といえるのではあるまいか。
そのくせ、思想へのあこがれがある。
日本の場合、思想は多分に書物のかたちをとってきた。
奈良朝から平安初期にかけて、命を賭して唐との間を往来した遣唐使船の目的が、主として経巻書物を入れるためだったことを思うと、痛ましいほどの思いがする。
また平安末期、貿易政権ともいうべき平家の場合も、さかんに宋学に関係する本などを輸入した。さらには室町期における官貿易や私貿易 (倭寇貿易) の場合も同様だった。
要するに、歴世、輸入の第一品目は書物でありつづけた。思想とは本来、血肉になって社会化されるべきものである。日本にあってはそれは好まれない。そのくせに思想書を読むのが大好きなのである。こういう奇妙な ─ 得手勝手な ─ 民族が、もしこの島々以外にも地球上に存在するようなら、ぜひ訪ねて行って、その在りようを知りたい。

『司馬遼太郎全集 ・ 「この国のかたち (一) 」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ