〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/19 (金) 大山 巌

「南山の戦い」 の凄惨な戦闘状況によって、児玉は 「総司令部は現地に行かなければならない」 と決意する。
そのことを参謀総長大山巌に相談すると大山は快諾してくれた。
満州軍総司令部の設立である。
大本営参謀部は満州軍総司令部として大山を頭に児玉源太郎、その左右に井口省吾と松川敏胤、児玉の懐刀といわれた福嶋安正の精鋭を引連れて海を渡った。
東京の留守居役には大本営参謀総長に長州閥の領袖である山縣有朋、参謀本部長には長岡外史が残った。
当初、満州軍総司令官としては野津道貫でいいのではないかと山本権兵衛は考えていたようだが、歴戦の猛将たちを束ねる上で大山の一枚上の格が必要だったのかも知れない。
日露戦争は本格化していく。

大山巌も鹿児島の加治屋町出身で西郷隆盛・従道兄弟とは従兄弟にあたる。家が近所だったことから兄弟のように育った。その従道とは、薩英戦争で 「西瓜売り決死隊」 として行動を共にした生涯の盟友であり、西郷の左右にあって 「大馬鹿者の信吾、知恵者の弥助」 といわれていた。
大山は西南戦争では従道同様に西郷軍とは行動を共にしなかった。維新後は陸軍の最高指導者となり、既に、日清戦争で参謀総長だった大山は、若い人材に後を託して隠退を考えていた。
日露戦争を念頭に児玉源太郎は、急死した田村怡与造の後任として、内務大臣の椅子を蹴って参謀本部次長に就任する。児玉はその大山に留任を強く懇願した。児玉の行動と熱意に大山の引退の決意は揺れ、遂に了承したのだった。
その時の大山の言葉は、
「戦は児玉さんにすべてやってもらいます。負け戦の時は私が出て指揮をとります」
であり、日露戦争を通じてその姿勢は変わらなかった。
そして、 「児玉さん、この戦は長びくといけません。潮時の見極めが大事です」 ともつけ加えた。
大山自体は今回の戦争に対しては積極的ではなかったようだ。むしろ世論を挑発する有識者の訪問に迷惑して 「今日も馬鹿が七人来た」 とぼやいていたと聞く。
大山の妻は山川捨松といって会津藩士の娘である。津田梅子や瓜正外吉の妻になる永井繁子など日本人女性初の米国留学生の一人である。戊辰戦争での薩長と会津藩の関係から到底信じられない組み合わせだが事実である。
結婚後の捨松は鹿鳴館の花と謳われた当時のトップレディーであった。
その捨松が語ったエピソードがある。
「大山の好きなもの、第一が児玉さん、第二が私、第三がブフステーキ」
自分を二番目に持ってくるところがアメリカ仕込みのウィットに富んだ彼女の機智が窺がえるが、ブフステーキはさておき、一番は児玉源太郎なのである。
大山はこの長州の跳ね返りのガラッパチ軍人が好きだった。そして、児玉の能力を十分に引き出すための環境づくりに徹する。
日露戦争の地では、クロパトキンの置き土産の寝台で昼寝を決め込む大山であり、今日は朝から大砲の音が激しいがどこで戦ですかとトボける大山巌なのである。
その風貌とは裏腹に語学に堪能で新しいものを好んだ。モダンでオシャレでもあった大山巌。無口な質ではあったがよくジョークを漏らす人物だった。 「大山がまたチャリを言う」 と同僚達から笑われた。硬直する参謀本部でも時々場違いな様相で現れては 「チャリ」 を漏らして自分の部屋に消えて行く。
意外かも知れないが薩摩人とはジョークの好きな民族である。大山のこの性癖だけは場外変わらなかったという。

薩摩型のリーダーのあり方については既に述べたが、司馬良太郎は 『坂の上の雲』 で大山について 「後年、自身を空しくする訓練を行った」 という表現で紹介している。
「空しく」 するということは西郷の (薩摩型) リーダー像の具現化でもある。この後年とは明治政府が出来て陸軍大将や大臣といった高官に登りつめてのことを指すのだろうか。それはいい。この 「訓練した」 というところがポイントである。
『坂の上の雲』 のもう一つのテーマは有能と無能である。 「ガマ坊」 という渾名の大山だが、彼自身の能力は非常に高い。それが前記した 「知恵者の弥助」 である。そう評した西郷自身も数理に明るく事務能力は非常に高かったが、己がトップになった段階でその全てを捨て去ってしまった。
大山はそれを側でずっと見ていたのだ。大山は予算の把握から政治的交渉や国際情勢までマスターしていた人物だろう。軍事面での専門が砲術である点もつけ加えておこう。日露戦争時は過去の話になってしまっていただろうが 「弥助砲」 の考案者でもある。
戊辰戦争では京都で特注した陣羽織の背中には猪は描かれていたという。このような合戦の場では 「イノシシ武者でなければならない」 と鳥羽伏見の合戦では砲兵隊長にもかかわらず自ら突撃の先頭に立った人物だ。
大山の有能は児玉に匹敵するものがある。
そんな大山が常に無能を装いトボケ続けるのである。大山はその有能が故に 「己を空しくする」 ことに相当の苦労があったのではないだろうか。その作業を完了させるまでを 「訓練」 と司馬遼太郎は表現したのだろう。
大山は日露戦争後、息子との会話の中で戦時中何が一番辛かったかの質問に「知らないふりをするのが一番辛かった」 と答えたというのである。
西郷従道は政治家として、大山は陸軍参謀長として、東郷平八郎は職業軍人として自己変容を実行した人間達である。それぞれの運命的環境という個人差はあるが、もし、彼らがその理由を問われたならば、西郷隆盛の存在と答えたのではないだろうか。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ