〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/30 (火) ネボガトフ C

○ネボガトフと参謀長のクロッス中佐がテーブルのむこう側に座った。
真之も座りつつ、先ず降伏を受け入れる旨のことを英語で言った。しかしネボガトフには通じなかった。
そのため予定通り山本大尉がフランス語で通訳することにした。
「東郷提督ハ、ココニ惨烈ナル海戦ノ終リヲ告ケルヲ貴官トトモニ喜ビ、カツ貴艦隊ノ降伏ノ申シ出ヲ名誉ノ降伏トシテ受クベク小官ヲ送レリ。ツイテハ貴官ラノ帯剣ハソノママニ帯セラレタシ」
その他、数項目を告げた。
ネボガトフはいちいち頷き、「貴命ニ従フベシ」 と笑顔で言った。 「ただ」 と両掌を開いて、その旨を各艦に伝達せねばならない、しばらくの時間を貰いたい、と言った。
ネボガトフとその参謀長が去った後、真之らは三十分待たされた。
この三十分のあいだにネボガトフは士官室でその幕僚と協議し、かつ各艦に連絡した。
やがてネボガトフが入ってきて、 「もう少し待って欲しい」 と言った。その理由は戦死者の水葬をしなけらばならないということと、三笠へ行く幕僚たちが服装を改めねばならないということの二つであった。
さらに少将は無心をした。三笠に行くために用うべき本艦の短艇がことごとく破戒されてしまっている。貴官の水雷艇に同乗させてもらえないか、ということであった。真之は、
「どうぞ」 と、頷いた。
その後、少将は着更えに行きもせず、ちょうど話し好きの商人が商売をほったらかしにして雑談をするように座り込んでしまったのである。
ネボガトフの懸念は、すでに四散してしまった味方の各艦の運命に関する事だった。
真之は、確報が入っているだけの分のことを話した。
ネボガトフはなおも各戦艦のたどった運命について入念に問い、真之からいちいち答えを得た後、不意に両眼を曇らせ、
「全滅-----」
と、呟いた。この時期。まだロジェストウェンスキー中将の洋上捕獲という事態が発生していなかったから、真之はスワロフと共に戦死したと思っているし、ネボガトフはおそらく駆逐艦で逃げたろうと思っていた。つづいてネボガトフは前日来の諸状況を聞きたがった。
こういういわば雑談は真之にとって迷惑だった。東郷が三笠で待っているのである。たまりかねてその事を言うと、多少のんき者の傾向のあるネボガトフは、
「おお!」
と、わが身が降伏者であることに気づいたらしい。
真之の文章によると、同少将は
「初メテ心付キタルガ如ク、蒼惶、私室ニ赴キ、従僕ニ命ジテ礼服ヲ出サシメ、之ヲ着替ヘラレタリ」
そのあとネボガトフと全ての幕僚は礼服を着て後甲板に出、総員に対し訓示をした。真之にはロシア語はわからないながら 「その調子は悲壮で、涙を含んで懇々と演説されていた」 という意味の事を書いている。

礼服のネボガトフ少将とその幕僚達が三笠の舷側の舷梯を登ってくる時の情景を、上甲板にいた砲術長の安保清種少佐が生涯忘れられぬ印象として記憶している。
「その悄然たる姿を見て、気の毒というか、涙のにじみ出るのを禁じえなかった。さても戦いとは勝か死ぬか二つの他はないものと思った」
この時三笠の艦上は物音ひとつせず、森の中のように静かだった。東郷はなお艦橋に立っていた。彼も安保清種と似たような感情の中にいたことは、以下の事でも想像できた。
この光景の中へ、第一艦隊所属の第二駆逐隊の四隻が割り込むようにして入ってきたのである。司令駆逐艦は朧で、電、雷、曙であった。それらの乗員達が各艦の上甲板にむらがって、三笠の艦橋上の東郷に向かい、 「バンザイ、バンザイ」 と声をあげたのである。
東郷はひどく不機嫌な表情になり、
「あっちへ行けと言え」
と、どなった。たれかが艦橋から 「沈黙せよ」 という意味の合図をすると、慌てたようにして四隻が三笠の横をすり抜けて後方へ去った。
その後東郷は長官公室でネボガトフたちと会見した。
通訳には、真之の先輩の中で彼と最も親しい一等巡洋艦浅間の艦長八代六郎大佐があたった。
八代は明治二十八年から四年間ペテルブルグの駐露公使館付武官をしていてロシア語に堪能であった。
両提督は降伏と受降に関する形式上のことを終えた後、一同にシャンペン・グラスが配られた。真之はこの場にいなかった。彼は敵の各艦に対し捕獲員の指図をしていたのである。
東郷はグラスを掲げ、
「海戦の終結を祝して」
と、日本語で言った。八代が大きな声でそれをロシア語で相手に伝えた。ネボガトフはグラスを掲げた。
一同飲み干した。
日本側の幕僚達はロシア側の心情を察してことされに表情を沈ませていたが、やがてその必要もないことがわかってきた。ネボガトフは日本風にいえば融通無碍の心境にあるらしく、ひどく明るい態度で東郷に話し掛けた。
この辺りで真之がこの公室へ入ってきた。以下、真之が後年メモしたところによる。
ネボガトフが、東郷に問う。
「閣下がなされた予測についてうかがいたい。どういう根拠で我々がツシマ海峡を通ると予知されたのか」
「予知したわけではない。推定したのである」
と、東郷。さらにネボガトフは、
「何に基づいて左様な推定をされたのか」
「地理天候その他の状況により、かくあらざるべからずと信じたるにすぎず」
パーティーは短時間に終った。そのあとネボガトフたちは退艦し、すでに日本の軍艦になったかっての自分の旗艦に戻った。  

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ