〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/29 (月) ネボガトフ A

○そのうち、前檣に、
「X・G・E」
という三旒の信号旗があがった。“ワレ降伏ス”、という意味である。さらにその後、テーブル・クロスで急製された白旗も掲げられた。
が、三笠の東郷には、それが見えなかった。距離が遠すぎたからでもあったが、ひとつにはかさか敵が戦わずに降伏するとは思わなかったのである。
この時東郷のとった戦術は彼の性格の一面をよく物語っている。敵は既に包囲されている以上、その自滅を期待した事である。彼は慎重に艦隊を動かし、軽率に敵の射程に踏み込んで味方を傷つけないように配慮した。
彼の麾下の諸艦うち、もっとも遠距離へ射てる砲を持っているのは春日であった。東郷はまず春日に指図して射たしめた。
ついで午前十時三十分、敵との距離が8千メートルに達してから、第一、第二戦隊がゆるゆると射撃を始めたのである。

砲撃は十分以上続いた。
その間、ネボガトフ艦隊は一発の応射もしなかった。
(どうも様子がおかしい)
と、最初に気づいたのは、秋山真之である。ただ肉眼主義者は望遠鏡を持っていなかったため、横にいた加藤参謀長に、旗があがってはいませんか、とたずねた。
加藤の双眼鏡にもこ降伏信号までは識別できなかったが、白旗は見えた。参謀清河純一大尉が、
「降伏です」
と、真之に言った。
ところが東郷はそれらの会話を聴きながらも沈黙し、 「射チ方ヤメ」 の号令を出さず、依然として射撃を続けさせたのである。
「長官、敵は降伏しています」
と、真之はどなった。それでもなお東郷は右手で双眼鏡を掲げ、左手で長剣の柄を握ったまま無言でいた。
東郷は昨日、今日と続いた戦闘中、一度も顔色を変えなかった。一度だけ顔つきが変わったのは、昨日の戦闘開始の直前、例の敵前回頭をやるとき、右手を左へ大きくまわして半円を描いて 「取舵一杯」 を命じた時であった。
彼は息を吸い、頬っぺたをふくらまし、半円を描き終わると息を吐いた。何か彼が決断する時の少年の頃からの癖だったという。
しかしこの場合の、ネボガトフとの対決において表情の変化はなく、ただわずかに不機嫌そうであった。
五隻の敵艦に、砲弾が命中するたびに爆煙があがっている。
真之がその癖のある両眼を裂くようにして東郷をどなったのはこの時であった。
「長官、武士の情けであります。発砲をやめてください」
と叫んだ超えは、そばにいた砲術長の安保清種少佐が後に大将になってからもその時の真之の血相の変わりようを説明し、その言葉を繰り返し口真似した。
が、東郷は安保清種の観察によれば冷然としていた。真之の言葉に切り返すように、
「本当に降伏すッとなら」
と薩音でいった。
「その艦を停止せにゃならん。げんに敵はまだ前進しちょるじゃないか。
東郷の戦時国際法の知識の的確さは定評があった。たしかに軍艦が敵に降伏するとき、白旗を掲げるだけでなく機関を停止せねば完全な意思表示にはならなかった。
「秋山さんも返す言葉がなかった」
と安保は回想しているが、真之は敵を見つつ、この一種特異な精神の反応を持つ男は怒りとも悲しみともつかぬ感情を抑えかねていた。
たしかに敵は間抜けであった。前進を続けているだけでなく、砲火こそ噴かなかったがその全砲門は三笠に向けられていたのである。
が、ほどなく敵も気づき、機関を止めた。東郷ははじめて射撃を中止させた。  

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ