〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/30 (金) 第二十一話 ・きじの脚を食べ損ねて得た皇位もこと
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ (光孝天皇)

○雉料理

雉の肉はご馳走でした。数もたくさん獲れたはずですけれど、何といっても姿が美しいですからね。中世の包丁書でも 「身には五色の衣を着し、頭に鶏冠をいただき」 とほめています。
しかも、 「諸鳥にすぐれ節正しくして夫婦の別正しく守り・・・・・・」 夫婦が別の山に寝るのです。それで 「仁深く婦徳に叶ふべき」 ですって。こんな立派な鳥さんを食べるなんてあんまりですが、もちろんおいしいのが雉にとって致命的なのです。
そうそう、高貴な鳥と見られるもう一つの理由がありました。 “鷹の鳥” とも呼ばれるぐらいで、鷹の代表的な獲物なのです。鷹は聖なる鳥で、ことに室町時代になって礼法が発達すると、馬上で街を行く際、鷹を左手に支えて行く人に出会った時は下馬して一礼する、なんておごそかな決まりが出来てきます。で、雉を食べようとする時ですが、主が 「鷹の鳥でございます」 といったら 「これは過分のことで」 とお礼を言って、箸を持ったほうの手でそのまま “指二つでつまみて食ふ” のだそうです。概して雉は “手で食べるべき” とあるのは古代には箸をあまり用いず、その方が厳かな礼式と思われたせいでしょうか。
王朝時代にはこれほどやっかいな儀式はまだありません。焼いたり、ゆでたり、干したものを裂いたりして、それを好みの調味料につけて食べます。調味料は、酢、塩、醤、酒の四種で食膳に並ぶのです。
あ、刺身もありましたね。 『大鏡』 には兼通 (カネミチ) が、夜中の寝酒にきまって殺したての雉を食べたという話があります。宵のうちからいつでも殺せるように雉を一羽捕えておくので、ある家司 (ケイシ) がつく箱の中でごとごと暴れていた雉を放してしまいます。 (こういう殺生はもちろん仏教ではいけないことで、この場合の家司の行いは善行になります)
○お皿をとられる
さて、あるお正月、藤原良房が自邸で大饗 (ダイキョウ) という宴会を催しました。
大臣の大饗は恒例行事で、天皇からは御使いが来て蘇 (牛乳を煮つめたらしいお菓子) と甘栗をくださいます。当日のご馳走もたいしたもので、おそらく蒸しあわびやら、蛸、海老、鮎 など山海の珍味も並んでいたことでしょう。
ところで陪膳の者が最上席の尊者 (主賓) のお席を確かめると、一品足りない!、それも大饗には欠かせない雉の脚の料理がないではありませんか。あわてた陪膳は、とっさに辺りを見回し、新王の中の一人の前にあった雉の脚をとって、尊者の御前に持っていってしまいました。雉の脚を取られた新王にとって、これはずいぶん侮辱です。
しかしこの親王は少しもお怒りにならなかった。 『三代実録』 に、 「少 (わか) くして聡明、好みて経史を読み、容止閑雅 (ヨウシカンレイ) 謙恭和潤 (ケンキョウワジュン) 、慈に寛広 (カンコウ) ・・・・・人事に長ず」 と書かれ方なのです。ご自分の欠けた御膳部が目立たぬよう、目の前に灯された大殿油 (燭台) をそっとお消しになった。
----- うーん、できたお方だ。
一部始終をみていた男が感心してうなりました。この親王と従弟に当る基経という男。そう、この大臣良房邸の優秀な嗣子です。
年月が移りすぎ、良房が亡くなり、基経が摂政となりました。あのわがままな甥っ子陽成天皇 (第十八話) に手を焼いて廃し、さて次期天皇をどの親王にと考え込んだ時、彼が思い出したのがこの事件だったとか。
「ああいう隠忍の方なら、私に逆らわず何でもいうことをきくに違いない」 と思ったのでしょうね。それとも
「もう思春期天皇などまっぴらだ。彼なら五十を過ぎて枯れている」 ということであったかもしれません。
さっそく、御邸を訪ねてみると、破れた御簾の中、へりの破れた畳にお座りになり、髪も構わぬ姿。皇位継承の欲などまるでないところも気に入った。
光孝天皇はこれで皇位を手に入れたのだそうです。つまりこれは、食い物の恨みなど顔に出してはいけないというお話。
○炊事する天皇
光孝天皇が即位されると前のお邸の近所の町の人たちが押しかけてきて、天皇は納殿 (オサメドコロ) から品物を出してこれまでの借りを返したそうです。
新王としては扶持も所領も多い方だったようですけれど、当時で二十九人も御子様がいらっしゃる状態では、かなり苦しい生活であったのかも知れません。
天皇になられてからも清涼殿の奥の渡殿 (ワタドノ) に面したお部屋に入っては、炊事なんぞを手ずからしていたそうです。今でも料理が好きな男性はいますけれど、女性でさえ煮炊きなどしない貴族社会の頂点にいる天皇のご趣味としては超異色です。薪で火を燃やすのですすけてしまったそのお部屋を、それで 「黒戸 (クロド) 」 と呼ぶようになったのだと、これは 『徒然草』 に書いてあります。
百人一首の歌は、天皇がまだ親王のご身分の頃、誰かに若菜を贈ったときにつけた歌です。
君がため
(あなたのために)
春の野に出でて 若菜つむ
(春の野原に出てこの若菜を摘む)
わが衣手に 雪は降りつつ
(私の袖には払っても払っても雪がちらちらと降りかかってきましたよ)
歌をいたを頂いて、若菜をたぶん、おひたしかお吸い物で食べてしまった方が、男なのか女なのかはわかりません。ただ、若菜をまだ寒い早春の野原で手づから摘んでいる男性の姿が、清冽ですてきですね。こういう場合従者に摘ませたのだという人もありますけれど、この親王ならご自分で摘んでもおかしくない!。
光孝天皇は五十四歳で帝位に即き、古いお后も皇后になりました。たいそう基経には気を使い政務を委せたばかりか、皇子全員に源の姓を与え臣籍に降ろしました。次期天皇を基経が自由に選べるようにとの深慮だったようですが、三年後崩御された後皇位にゆいたのは光孝天皇の第七皇子でした。源の姓をまた削っての即位です。
光孝天皇===無欲で実を取った天皇です。
『みもこがれつつ − 物語百人一首』 著・矢崎 藍 発行所・筑摩書房 ヨ リ