○九歳の夫
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高子が九つも年下の皇太子に入内したのは、叔父で養父である右大臣藤原良房の政略です。
一年もたたぬ内に三十二歳の今上文徳天皇が倒れ、三日間口もきけぬ状態で崩御されます。
どさくさの中で良房が、孫の皇太子を即位させ、自分が摂政として新帝を後見するという口頭の 「先帝の遺詔 (イショウ)
」 を発表します。
えっ、口がきけなかったのに遺書を?、なんだか府に落ちない話で、天応毒殺説さえある事件です。
こうして藤原氏はついに人臣最初の摂政の座についたのです。高子も天皇の女御 (ニョウゴ)
になりました。
でも彼女には悪い男がいましたっけね、在原業平という。
青春の恋はまだふっきれていませんでした。 『伊勢物語』 によれば、業平は宮中の高子の局や、差と下がりした先まで追いまわしています。
少年天皇もしだいに多感な青春期、思春期へと成長してゆく。少年でも、男心はあるはずです。天皇であるだけに所有権を侵された怒りは激しい。業平は都を追い出されます。
高子は?。天皇は彼女を罰する事ができません。摂政太政大臣で彼女の祖父である良房は自分の血筋である高子に次の皇子をあげさせたいのです。
清和天皇は多淫だったといわれます。後宮に次々と后が入ります。これは良房や、不倫の后への天皇のあてつけであったかもしれません。
高子は三十一歳でようやく妊娠し皇子をあげました。良房は大喜びでこの皇子を二歳で立太子させました。
高子さんにはこんな歌があります。
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雪のうちに 春は来にけり 鶯の こほれる涙 今やとくらむ |
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谷の鶯が涙ぐんでその涙が凍る。なんて繊細で優しい想像でしょう。この人の青春の恋は、政略結婚のおかげで醜聞になってしまいました。 |
○さそふ水あらば |
さて、彼女が東宮御息所として安定した日々を送っていたころの正月三日、文屋康秀という官人が召されました。
明るい日の照っている最中に雪が舞い、庭にひざまずく康秀の髪に降りかかります。仰せによって康秀が歌を詠みました。
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春の日の 光にあたる 我なれど 頭 (カシラ)
の雪と なるぞわびしき |
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「白髪になっちゃって」 といいながら実は “春の日の光” に皇太子 (春の宮) のお恵みの意をこめて、
「私を引き立ててください」 などと頼んだのです。
下級官吏の彼には雲の上の政治はどうでもよい。折あらばこつこつと昇進運動をして日々の暮らしをたてているのです。
彼の歌友達に小野小町がいます。彼は三河掾 (ミカワノジョウ) (守・介につぐ三等官)
の職を得て下る時に彼女を誘います。
「私と田舎見物に出かけることはできませんかね」
気の合う中年男女。別れを前にして男が偲ぶ思いを打ち明けたような。小町はふと迷った。 |
わびぬれば
(憂鬱なので)
身をうき草の 根をたえて
(根のないうき草のような今の暮らしをぷっつり思い切って)
さそふ水あらば いなんとぞ思ふ
(もし誘ってくれる人があるなら行ってしまおうと思いますけど) |
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小町は “まったくひとり身” ではないのです。苦しまねばならぬ相手との関係が続いている。
いっそね、あったかで実直そうな康秀さんについていこうか。でもねぇ。康秀さんもそんなに本気というわけでもないんでしょう。だから、
「さそふ水あらば」 と仮定形で彼女はもう一度男に問いかけているような。
「ね、どのくらい本気?」
康秀はこの後また歌をよこしたのでしょうけれど・・・・・・。
そう。中年のお互いしがらみを持っている恋は面倒だし、今ひとつ、お互いの情熱も足りなくて、好意の記憶を残して終ったやりとりでした。
さて、百人一首の康秀の歌。 |
吹くからに 秋の草木の
しをれるは
(吹くとすぐに秋の草木がしおれるので)
むべ山風を あらしというらむ
(まるほど、それで山の風を “荒らし” というんですなあ。そういえば漢字の嵐も山風で・・・・)
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京都は山に囲まれた盆地です。山からおろす秋風の肌合いは、やがて来る厳しい冬を予感させます。
ところがこの歌、実は康秀ではなく、息子の朝康の作ともいわれています。朝康の歌も百人一首にありますね。 |
白露に 風の吹きしく 秋の野は
(一面の白露に、風がしきりに吹いている秋の野原は)
つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
(オヤオヤ、貫いてとめてないバラバラの玉があちこちで、いっせいに乱れ地っているではありませんか)
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玉は真珠か、水晶か。キラキラころころと美しい歌ですが、こちらも風があってしかも情景が動的です。同一作者だからか。それとも親子で似ているのか。どっちでしょう?。
父の方は六歌仙の一人で、例の 「仮名序」 ではこう評されています。 |
ことばたくみにてそのさま身におはず
(テクニックはあるが、内容が伴わない)
いはば商人のよき衣着たらんがごとし
(ちょうど商人がいい着物を着ているようなものだ) |
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品格が問われているようです。結局六位で終り殿上人にもなれなかった彼ですから、こんな評も
「仕方ネーよな」 というかもしれません。 |