〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/21 (水) 第十話 ・妹の死に涙した大男の不屈の人生のこと
わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟 (参議篁)

○六尺二寸

小野篁 (オノノタカムラ) は身の丈が六尺二寸 (約190センチ) あったといいます。
父が陸奥国の国守をしばらくしていたため、少年時代は大自然の中で馬を乗りまわしており、筋骨たくましい若者として都に上ってきました。
当然ながら勉強は大嫌い。しかし彼の父小野岑守 (ミネモリ) は勅撰漢詩の勤めたほどの学者です。
ある日のこと嵯峨天皇が、 「岑守の子ともあろうものが弓馬の道に執して学問をおろそかにするとは」 と惜しまれたそうな。
これを聞いた篁が、翻然として悟ったというところが偉い!。以後、人が変わったように学問に打ち込み、二十歳で文章生 (モンジョウセイ) となり、以後大内記 (ダイナイキ) 式部少 (シキブノショウ) (ジョウ) 、東宮学士 (トウグウガクシ) を歴任する漢学者になりました。
こうなると求婚する時も漢文の力を借りようとするから、彼、ちとしつこいですね。もっとも女性に漢文で書いたのではなく、そのお父さんに、娘さんを下さいと迫ったので、その名分が 『本朝文粋』 に残っています。
『古今和歌集』 には、妹に死なれたときの歌があります。
泣く涙 雨と降らなむ
(私の泣く涙よ。雨と降っておくれ)
渡り川 水まさりなば 帰り来るがに
(涙の雨で三途の川が増水してしまえば、妹はあの世に渡れずに私のところへ帰ってくるだろうから)

どうやらこのたくましい大男が、涙をぼろぼろとこぼして泣いたらしい。感情の量も多いのです。
たぶんこの歌のせいでしょう。「篁物語」 というお話では、彼と妹は熱烈な恋をしたことになっています。
頭が良くて美しい娘だったこの妹を、親は内侍として天皇のもとへ差し出そうと、漢籍の勉強をさせました。
その家庭教師に異腹の兄で、当時大学の学生として優秀の聞え高い篁をつけたのです。年頃の娘に若い男なんて “猫にカツオ節” なのに、親は 「知らぬ人よりは」 と信じて簾ごしに間に几帳をたてて勉強させる。もちろん簾があろうが几帳があろうが、猫にはカツオ節の匂いがぷんぷんと感じられるに決まっています。
漢文は返り点がありますので、角筆 (カクヒツ) といって、象牙を筆の形に削ったもので字を指し示して読ませます。かなり接近していますから、お話をする間にお互いの姿も見えてしまう。
「兄と妹の仲なんて越えてしまおうよ」 と男は言い、 「あらそんなこと」 と歌を交し合ううちに、女は食欲がなくなって、橘とか柑子ばかり食べたがるようになったからこれは大変。
このイケナイお兄さんはとても優しくて、大学で宴会があると、酒の肴に出る橘を 「ぜんぶ妹に持っていってやりたい」 と思いますが、そうもいかないので二つ三つ懐に紙で包んで持ち帰ります。
これでは妊娠がばれぬはずはなく、怒った親は男の屋敷への出入りを指し止め、娘を一室に閉じ込めてしまう。娘は悲しみのあまり絶え入って死んでしまったという哀れなお話。さあ、どこまで事実でしょうね。

○筋をとおす男
篁は三十三歳の男盛りで遣唐副使に任命されました。しかし承和三年 (836) 七月大宰府を出た四隻のうち、二隻が破損して、渡唐は中止となります。翌四年七月も、出航直後逆風に吹かれ、一行は壱岐に漂着。またも延期。
さて承和五年。今一度の出航前に正使の藤原常嗣 (ツネツグ) が、自分の第一船と篁の乗る第二船を替えたいと言い出し、朝議もそれを認めてしまいました。篁は頑としてはねつけ、通らないと仮病を使って乗船を拒否した上 「西道謡 (サイドウノウタ) 」 を作って遣唐使制度を批判しました。
当時の体制批判には命がかかっています。篁は危うく死刑を免れたものの官位を剥奪され、隠岐国に流罪になりました。
今度の難波からの船出は栄えある遣唐副使から一転、罪人としての侘しい旅の始まりです。しかし、行く手に瀬戸内の島影を見、彼の船を見送る漁師の小さな舟を後にする篁の姿勢は昂然として怯むところがありません。
わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと
(大海原を私が多くの島々めがけて漕ぎ出して行ったと)
人には告げよ 海人のつり舟
(都にいるあの人に知らせておくれ。漁師のつり舟よ)

「八十島かけて こぎ出でぬ」 にはいやいや首を引かれて配所に向かうのではない積極性がありますね。 「告げよ」 という命令形も強い。
公の命であろうと、正しい事は正しいとする彼の信念が支えている歌です。
隠岐で罪人生活を送った彼は、三年後に再び都に召還されます。のち嵯峨天皇に重用され参議にまで進みました。参議というと大臣、大納言、中納言に次ぐいわば閣僚の末席に当ります。
彼の硬骨多才は伝説をいくつも生んでいます。何を隠そう実はこの世にありがちな地獄の閻魔王に仕える官吏を兼ねていたのだとか -----。
西三条左大臣良相 (ヨシミ) は一度死んで閻魔王宮に行き、そこで小野篁の口添えで蘇生したのだそうです。
またある日、嵯峨帝の内裏に 「無悪善」 という立札が立ちました。天皇が篁に 「何と読むのか。読め」 といわれると篁 「読めはしますが、お怒りになると困るので申せません」
こうなるとなお知りたくなる天皇に強要され篁がしぶしぶ 「 “さがなくてよからん” と読みます。わが君を呪い申しあげる言葉でございます」 と答えると果たして天皇は不機嫌になりました。とうとう、読めるのはお前だけなのだから書いたのもお前だろうという嫌疑を受けてしまいます。
「さればこそ、申し候はじと申して候ひつれ (だから申しあげたくないといったのです)」
げっそりした篁に天皇は 「ではお前は何でも書いたものは読めるのか」 「はい何でも読めます」
そこで天皇が出した問題は、片仮名の子 (ね) 文字を十二でした。 「さあ読め」
子子子子子子子子子子子子
篁が 「ねこの子の子ねこ、ししの子の子じし」 と読むと、天皇はにっこり微笑んで誤解を解いたのです。
しかしこの話、篁も賢いけれど、天皇に仕える身のこわさも身にしみますね。

『みもこがれつつ − 物語百人一首』 著・矢崎 藍 発行所・筑摩書房 ヨ リ