〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/18 (日) 第八話・女ごろしの甘くさびしく孤独な魂のこと
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける (中納言家持)

○三日月眉の人

大伴坂上朗女 (オオトモノサカノウエノイラツメ) が宴席でこんな歌を詠みました。
月立ちて ただ三日月の 眉根掻き
(今月になってもう三日月。私、その三日月のような眉をかいていましたので)
け長く恋ひし 君に相へるかも
(ずっと前から恋していたあなたに会えたのですわ)
眉のところが痒くて掻くと恋しい人に会えるという俗信があるのです。三日月眉というのは唐から入って来て大流行のモダーンなお化粧法で、筆で刷くように三日月型に眉を描きます。
当時は口紅もつけますが、おでこにも花鈿 (カデン) といって朱色か緑色の花型を飾り、口の両脇ににも同じ色をチョンチョン。ずいぶんカラフルでした。
大伴家の祭祀を主宰する巫女として重きをなしていた彼女の歌はいつも華やかに喝采を浴びます。
さて坂上朗女さんは傍らにいる少年の方に目をやりました。
「あなたも三日月の題で歌を作ってごらんなさい。すてきな恋の歌を」
彼女の甥に当る大伴家持くん。十四歳ながら、豪族大伴氏の長である父旅人 (タビト) の嫡男で将来を嘱望されている。
その少年が涼しい声をはりあげて歌いだしたのは、こんな歌でした。
ふり放 (サ) けて 若月 (ミカヅキ) 見れば
(空を仰いで若い三日月を見たら)
ひと目見し人の 眉引念 (マユヒキオモ) ほゆるかな
(ひと目見たあの人の美しく引いた眉のことが思われてならないのです)
「あら、可愛らしい」 坂上朗女さんは目を細めたでしょう。幾多の恋を経て軽い朗女さんの歌と異なり、少年の歌の初々しいこと。宴席の一同に披露して和して歌ってから、彼女は少年にたずねます。
「ねえ “一目見し人” って誰のこと。おっしゃいよ」
少年ははにかんで、華やかに粧った艶麗な叔母の前で口ごもり、やがて利口そうな目を上げていいました。
「私の前にいる・・・・美しい方」
「え。あら。この子は」
『万葉集』 巻六に二つ並んだ初月 (ミカヅキ) の歌は、きっとこんな情景で詠まれたはずです。
○年上ごのみ

九州の大宰府で、師 (ソツ) である父と共に若い日を過ごした彼は、この叔母さんの影響だけでなく天性、女ごろしの素質を持っていたように見えます。
二十歳。都に帰り内舎人 (ウドネリ) に任じられた彼は、馬に乗り弓矢を負ってさっそうと出仕します。
すでに二年余も愛しあった妾 (ショウ) に逝かれ、傷心のかげりが整った面差しになお魅力をそなえていたのか、女たちにおそろしくもてます。
例の坂上朗女さんはご自分の長女坂上大嬢 (オオイラツメ) と彼を結婚させますが、大嬢はまだネンネだったらしい。
このご彼は娘小 (オトメ) や朗女 (イラツメ) (既婚者、年上の人) を問わず、名前のわかっているだけで十四人もの女性と愛の歌を交わし、深い関係に陥ります。激しく迫った来たのは笠朗女 (カサノイラツメ) です。
「念 (オモ) い死にというものがあるなら私は千回でも死ぬほどあなたが好きよ。」
「恋で人はやはり死ぬのね。私は月に日にあなたを思ってやせ細るの。」
情熱を歌でぶつけてきますが、家持はいまひとつ盛り上がらない。彼女はついにくやしがってこの歌。「相 (アイ)(オモ) はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後 (シリヘ) に額 (ヌカ) づく如し」
この恋には実らぬ事情があったらしく、彼女が故郷に帰ってから家持は、こうなるころはわかりきっていたのだから、最初から会うべきではなかったのだなどという歌を詠んでいます。
だいたい繊細で内省的、多くの女心をくすぐるわりには、本人は誰にでも燃えるという質ではないのです。何しろ、中年になってからですが、

「うらうらと れる春日に 雲雀上がり 情 (ココロ) 悲しも ひとりし思へば」
と歌う甘い淋しさを持った魂です。
「死ぬ」 と騒ぐ女性より複雑でデリケートな、ことに年上の人とは波長が合うようで、ずいぶん年の差のある紀女朗 (キノイラツメ) さんとは、冗談をいいあいながら甘えつ濃やかな愛を交わしています。
○海行かば
こんなことがわかるのも、家持が主として編纂したといわれている 『万葉集』 に、彼がこの恋人たちの歌をたくさん入れたからです。
「失礼しちゃうわ」 といった女性もいるかしら。でも、おかげで彼女達の愛と生が歴史に残ったのです。
ところで、こんな文学好みの家持、軟派の家持。それは実は彼の生涯のごく一部でありました。
彼は父の死後、豪族大伴家の長として一族を率いる立場になりました。
海行かば 水浸 (ミヅ) く屍 (カバネ) 山行かば 草生 (ム) す屍
                    大皇 (オオギミ) の へにこそ死なめ
死体るいるいと、腐臭まで発しかねないイメージのこの歌は、(私が赤ん坊のころ) 荘重なマーチにのって全国に流れ、やがてそのイメージが大陸に、日本の国土に現実となったのでしたね。
この歌は 『万葉集』 の家持の長歌から取られています。ただし彼の創作ではなく皇室守護の部族である大伴氏の祖先から伝わった誓いの言葉です。
豪族大友氏の長として、皇室の内 (ウチ) の兵 (イクサ) である誇りをこうした言葉でかきたてた家持の政治的生涯は波乱に満ちていました。
延暦四年 (785) 、中納言従三位にまで至り六十八歳の天寿を全うしたかにみえましたが、死後二十日、早良 (サワラ) 太子一派の藤原種継暗殺事件が起こります。家持も連座の責めを受け、埋葬前の死体は鞭打たれ四国に流されました。
さて、百人一首の歌。
かささぎの 渡せる橋に
(天の川を織女星が渡る時はかささぎが翼を連ねて橋をつくるとか。その橋に)
おく霜の 白きを見れば
(置いた霜の白さを見れば)
夜ぞ更けにける
(もう夜はすっかり更けてしまったのだ)
凍りつく星空は、まさに 「霜、天に満つ」 の気配なのです。この歌は家持作ではないともいわれていますが、深夜冬の天の川を見上げる孤独の人は家持にふさわしいと私は思います。
『みもこがれつつ − 物語百人一首』 著・矢崎 藍 発行所・筑摩書房 ヨ リ