〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/15 (木) 第五話・骨肉の争いに生きた皇女と女帝のこと
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 (持統天皇)

○フナの包み焼き

十市皇女という皇女がいました。母は有名な額田王。父は大海人皇子です。
彼女が少女になったとき、美しい母は父の兄である中大兄皇子 (天智天皇) の恋人になっていました。その母の差し金か、彼女は中大兄の息子である大友皇子と結婚します。
『宇治拾遺物語』 は、壬申の乱の発端にこの皇女を登場させています。天智天皇の死後、近江の都で夫のもとにいる彼女が、遠く吉野に身を隠した父、大海人皇子に密書を送ったというのです。
「お父様、殺されますよ!」 密書は鮒のお腹を裂き、中に結び昆布、クルミ、蒸し粟、串柿、芥子の実を入れて縫い、塩、酒などの調味料で煮るのですって。
物語によれば、たぶん汁で茶色く染まっていたこの手紙によって、大海人皇子は吉野を脱出、兵を集めて近江に進軍することになります。先手を打った大海人側は、瀬田の唐橋の戦いで圧倒的な勝利を得、二十四歳の大友皇子は山前 (ヤマザキ) に追われて自害します。
十市皇女は夫と行を共にしていません。戦乱がおさまると父の大海人皇子のもとに戻ったようです。
夫を捨てた冷たい女?。でも、結婚歴の浅く若い彼女にとって夫とは何だったのか。大友皇子の妃はたくさんいたはずですし、あるいは彼が特に愛していた女がいなかったとは言い切れません。
父と夫との争いに、夫に組みせなかったこと自体に、彼女の不幸せがあったとはいえないでしょうか。
○血を切り捨てる
さて、大海人皇子が即位した天武天皇の皇后が、後の持統天皇です。
彼女は天智天皇の皇女です。皇室の血が濃いほど尊いこのころ、兄と弟は互いの娘を妻とし合うのです。
天武は兄天智の皇女を四人も妃にしており、彼女はその二番目でした。
一番上の同母の姉太田皇女 (オオタノヒメミコ) は大津皇子を残して早逝していたので、彼女と息子草壁皇子に皇后位と皇太子位がまわってきたのです。壬申の乱は彼女にとっても、夫と、父の残した腹違いの弟との血族争いでしたが、彼女は迷わず夫をとりました。
彼女は五歳のとき、母の実家である右大臣家を父の手によって亡ぼされ、母も失っています。右大臣家の謀反は無罪と後に判明し、父は後悔したという事ですが、功臣である右大臣家が勢力を増し、邪魔な存在になっていたことも確かなのです。
しかも、彼女の側からいえば壬申の乱の原因は、父天智の独断的なルール破りにありました。
そもそも天智が位についた時、皇太子は彼女の夫大海人皇子であったのです。
この時代にはまだ皇位継承は父から子より兄から弟という例の方が多い上、誰が見ても父につぐ実力者といえば大海人皇子でした。
それなのに父は、わが子可愛さから大海人排斥を謀り、皇太子辞退に追い込んだのでした。
彼女は夫と共に吉野に逃げ、次いで父の造りあげた近江の都を攻める夫に従って吉野を脱出します。
梅雨時でどしゃ降りの雨の中、彼女を乗せた輿は難渋しましたが、夫の敗北は彼女自身の死、そして愛しい一人息子草壁の死を意味しています。
父天智や弟への骨肉の感情など、はるか昔に切り捨てられていたはずです。
戦う相手は常に血のつながった肉親であるのが皇位をめぐる争いである事を、彼女ははっきりと認識していました。
○堂々の女帝
皇后となった彼女は天皇からたびたび政治の相談をかけられたといわれています。その広い視野、政治力は、父の天智ゆずりだったようです。どうやらいざという時に発揮される冷酷ともいえる決断力も。
天武天皇が病没し、後を託された彼女はわが子草壁皇太子を、競争相手の皇子たちから守るために動き出します。
二ヵ月後、彼女の同母の姉太田皇女の遺児大津皇子の謀反が発覚。捕らえられた皇子は三日後に処刑。その急ぎようこそ、大津の無実と、皇后の何が何でも大津を殺すという意志をはっきりと表しています。
父天智が昔したように、まちがいであったら後悔すればいいのです。どうやらさほどの才を示さなかったらしい草壁皇子に比べ、大津皇子は “幼にして学を好み博識、壮に及びて武を愛し” しかも人に好かれたという ---- 母子にとって最も危険な存在であるが故に、二十五歳の若い命を断たれたのでした。
この事件の反動を抑えるためか、持統は自ら天皇位につきます。わが子草壁を皇位につけるための中継ぎの女帝でしたが、草壁は病気で早逝してしまい、彼女は草壁の子、つまり孫に当る文武 (モンム) に皇位を渡すまで政治をとり続けることになります。
『日本書紀』はこの女帝を 「深沈 (シメヤカ) にして大きなる度 (ノリ) まします」 「母 (オモ) たる徳まします」 と表現しています。
その政治は日本の天皇の中で五指に入る堂々とした支配でした。
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 
百人一首の持統天皇の歌は 『新古今和歌集』 からとられていますが、原歌は万葉集にあり、上の句は
「春過而夏来良之」 です。
ふつうは、
“春過ぎて夏来たるらし” とよみます。この方が女帝の貫禄がありますね。
下の句は、
「白妙能衣乾有天之香具山」
こちらも、
“白妙の衣乾したり天の香具山” とよむ方が素直です。
鮮やかな深緑に、まぶしい日の光を照り返して白い着物が干してある。ああ、もう夏が来た。
神聖な香具山を眺める持統女帝もまた、豪華な宮殿の中で人々に崇められ、恐れられる存在です。
さすがにその感性がとらえるのは、散る花でもなく、うつろな紅葉でもなく、白昼のはつらつとした初夏の光です。
「衣干すてふ」 と訓み、 「干してある」 と伝聞での想像にして印象をあいまいにした感のある、百人一首でのこの歌。
六百年後、王朝時代の夕暮れに生きている藤原定家には、その躍動感となまなましさが、まぶしすぎたのかも知れません。
『みもこがれつつ − 物語百人一首』 著・矢崎 藍 発行所・筑摩書房 ヨ リ