〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/07 (水) 第四話・英断の太子の即位をはばむタブーの恋のこと
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ (天智天皇)

○ぬれ場か?

さて、一番の歌に戻りましょう。時は定家の時代から六百年昔にさかのぼります。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ (秋の田のわきに作った仮小屋にいると、屋根を葺いた苫の編み目が粗いので)
わが衣手は 露にぬれつつ (私の袖はその編み目からしきりにこぼれてくる露でたえまなく濡れてしまうのだよ)
なぜ天智天皇のようなお偉い大王様が秋の田の番小屋にいるのでしょう。私はてっきり、農民のぴちぴちした娘と一晩過ごしてしまったのだろうと勝手に想像していました。
“露にぬれつつ” なんてまさにぬれ場ですもの。
で、翌朝娘に歌いかけた歌とすればふくらみがあっていいでしょう。
丸谷才一氏も (農民の娘との一夜とは言っていませんけれど) この歌の裏に恋の情を感じ取っても良いと言っています。
彼によれば、天皇は色好みでなくてはならないのだそうです。天皇は国家の呪術者としての作物の豊穣を祈るのが使命であり、それには自ら率先して繁殖の事に励まねばならない。従って、もっとも天皇らしい歌とは恋の歌であり、それを定家が知らぬはずはない。まして恋歌が好きな定家ではないか。
しかし、解釈の定説は、天智天皇がもったいなくも農民になり代わっての御製ということになっているようです。
藤原定家は天智という偉大な天皇を尊敬していましたから (藤原氏の祖である中臣鎌足を重用したのが天智天皇なのです) 百人一首の一番は立派な歌で始めたいということのようです。ちょっとざんねんですね。
おまけに、実はこの歌は天智天皇の作ではないのですって。 『万葉集』 の作者不詳の類歌が伝えられるうちに今の形になって天智作になったのだとか。このころ残された歌にはこうした民謡的なものがかなりあるのです。
○ハムレット
歌の作者はともかくとして、天智天皇という方をどう思い浮かべますか。偉大な天皇----ではありませんか。平安末期のおかっぱ頭だったりするひ弱な天皇ではなく力のあふれた男。
私が昔、中学校で日本史を習った頃、天智天皇は中大兄皇子として、刀をひっさげた姿で登場しました。後ろには中臣鎌足が弓の矢をつがえています。皇子は母である皇極女帝の面前で寵臣蘇我入鹿にやにわに切りつける。
驚いた母帝が 「何事か。どうして大臣である入鹿を殺すのか」 とたずねると、皇子は堂々と答えます。
「入鹿は皇統を傾けようとしています。どうして天孫をもって入鹿にかえられましょうか」
母帝は黙って奥にお入りになり、ついに入鹿はとどめを刺され、首を切られてしまいます。入鹿の父蝦夷も邸に火を放って死に専横の蘇我氏は亡びます。皇極女帝も退位し、孝徳天皇のもとで皇太子となった中大兄皇子は、中臣鎌足と共に大化改新を断行するという大団円の話ですけれど、母帝の態度が今ひとつぴんときませんね。
ずいぶん後になって、梅原猛氏の本で 「不敬にあたるかもしれませんが」 と前置いて 「これは未亡人である皇極女帝が入鹿と恋愛関係にあったんじゃないか」 とあるのを読んで、ようやくすっきりしたような気がします。
おそらく肉体関係もあった。従って中大兄は 「ハムレットのような気持ち」 です。母としては十九歳の息子に不倫の相手の男を切り殺され、居直られては一言もない。そうか。これは血みどろの家庭内暴力なのか。
皇室の家庭内暴力はつねに権力と結びつき、他の勢力とからんできます。この事件にももっと大きな背景があります。
○兄妹相姦

蘇我入鹿はこの少し前に中大兄の母違いの兄である古人皇子 (フルヒトノミコ) にきも入れをして、もう一人の人望のある皇子山背大兄 (ヤマシロノオオエ) (聖徳太子の皇子) を斑鳩の里に攻め殺していました。古人皇子をいずれ皇位につけるのに残るもう一人の邪魔者は中大兄皇子です。
中大兄はぐずぐずしていて殺られるよりはと、先手を打ったのです。
もちろんこちらの黒幕は中臣鎌足。当然ながら事件後、古人皇子はじきに謀反の疑いをかけられ殺されます。
皇位か?または死か?
有力な皇子たちにはこの二つの選択しかないのです。
さて、かくして皇太子位を得た中大兄ですが、不思議な事に叔父の孝徳天皇が崩御しても天皇になりません。
結局即位したのはまたもや母帝でした。 (斉明天皇 重祚)
すでに三十歳、勇猛、果断、智にたけ、政治の実権も握った皇太子が、なぜ即位しないのか。
ここでまた、男と女の関係が推定されています。中大兄は孝徳天皇の皇后間人 (ハシヒト) と深い仲だった!。
これはまあいいでしょう。孝徳は死んだのだし。しかし、この間人は、実は中大兄の同母の妹なのです。叔父叔母との結婚、異母兄妹の結婚が許された当時でも、同母の兄妹の相姦はタブーでした。 『古事記』 の中でも、同母の妹と愛し合った軽太子 (カルノミコ) は太子位を失い、伊予に流され、追って来た妹と共に悲しい最後を遂げています。中大兄もそんな、暗い恋におち入ってしまったのでしょうか。
彼は生涯たくさんの妃を持ち、子も多くもうけています。しかし、最も愛している女とだけは蔭の関係でいることしか出来ぬばかりか、そのことの発覚を恐れて手に入るべき天皇の位まで辞退する。
男にとって女がそれほどの価値を持つことがあるのでしょうか。
彼は母の斉明天皇が崩御してもまだ即位せず、称制といって皇太子のままで数年、政治をとりました。太子でいること二十数年、四十三歳で彼が即位し天皇となったのは、その前年に間人皇后が亡くなったからだといわれています。

『みもこがれつつ − 物語百人一首』 著・矢崎 藍 発行所・筑摩書房 ヨ リ