〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/07 (水) 第三話・隠岐と佐渡の帝王父子と都の定家のこと
ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり (順徳院)

○武家よ滅べ

承元四年 (1210) 後鳥羽院は十六歳になった長子の土御門 (ツチミカド) 天皇を廃して、気に入りの十四歳の次子を位につけました。順徳天皇です。土御門天皇には何らの過失もなく、一波乱あってもいい情勢でしたが、何事も起こらず、 「増鏡」 は、これも土御門天皇がおっとりした御性格のゆえであると、歯がゆげな書き方をしています。おそらく父院としても、このように事を構えぬ長子の性格こそが気に入らなかったのでしょう。
この少し前から院は、御殿の守護の北面の武士に、西面の武士も加え、先頭に立って武芸に打ち込み出していました。
皇国史上はじめて、国を統べる権威が皇室の手から奪われつつある時なのです。父に似て才気煥発、勇ましくもある順徳天皇を立てて、期すべきところがあったに違いありません。
間もなく鎌倉では三代将軍の実朝が殺されるという大騒動が起こりました。犯人の公暁 (クギョウ) も殺されて、鎌倉幕府を開いた頼朝の子孫は絶えてしまいます。
「そら見たことか」 と後鳥羽院以下、都の公卿たちは思ったでしょう。いかに力まかせの武士どもが思い上がろうと、わが国の中心はここ京の都であり、治天の君は皇室にしかないと。だから、鎌倉が四代将軍に後鳥羽院の皇子をと上奏しても蹴ってしまいました。
鎌倉は滅べばよいのです。そしてこの京に四百年続いた栄華が再び戻ってくるように。
ももしきや (ああ、この宮中よ!)
順徳天皇の歌もその感慨です。百敷 (モノシキ) とは立ち並ぶ宮殿群をいいます。
古き軒端の しのぶにも (古い建物の軒端にはしのぶ草が生えている)
これは豪華な雰囲気ではありませんね。むしろひっそりしている。この宮殿が政治、文化、経済、すべての中心であった時代は去っています。我が物顔でいるのは武家。武家の力にねじ伏せられている宮中。 “しのぶにも” は掛け詞なので、意味をとるときはもう一度使います。
なほあまりある 昔なりけり (ああ、偲んでも偲んでもなお余りある華やかな昔であることよ)
○承久の変
私たちはこういう歴史をふり返る時つい、何もかもわかりきって眺めてしまいますね。年表を見れば、この時代は既に鎌倉時代です。王朝貴族の時代は二度とやってきません。しかし、この時代の真っ只中にいる彼らにはそれが見えません。だからこそ時代の潮流にも逆らって闘う----。
承久三年 (1221) 順徳天皇が二歳の皇子に譲位してすぐ、後鳥羽院は諸国に北条義時追討の院宣を出しました。
何と挙兵は失敗に終わりました。これまでの政権争いと異なり、鎌倉側には一人の皇子も立てられない----まったく皇室対北条執権の鎌倉幕府との闘いであったのに、世の大勢は鎌倉側についたのです。
後鳥羽院も順徳院も 「まさか、信じられぬ」 という思いであったでしょう。
二歳の新帝は在位七十余日で廃され、後鳥羽院は隠岐へ、二十五歳の順徳院は佐渡へと流され、そこに生涯を終えることになります。土御院は事件とは無関係でしたが、父と弟が流されるとなると、自発的に申し出て土佐に流されました。
では、次の天皇は?後堀河天皇。父君の後高倉院が院政をとられます。
この後高倉院こそ誰あろう、五歳の幼児の時後白川法皇を嫌ってエンエン泣いたばかりに、四歳の後鳥羽院に皇位を持ってゆかれた坊や。まさに禍福の転ずるや、測るべからずです。
○定家の内心
さて、後鳥羽院の近臣で、順徳院の歌の師でもある藤原定家さんはどうなったでしょう。
彼は鎌倉から何の咎めも受けていません。生前の実朝将軍と文通で歌の師をしていたり鎌倉側とはうまくやっていた上に、ちょうど承久の変の少し前、歌のことで院の不興をこうむり謹慎させられていたのが幸いしたのです。
それでも院が流される時はさぞや悲嘆に暮れ、御車を追ったのだろうか----というと、どうのそうではない。
それどころか息子の為家に、順徳院のもとに決して伺うな、お文もさし上げるなと厳命します。
為家は順徳院とは一つ違いの遊び友達で、世間では佐渡へのお供に必ず入るだろうと噂していたのですが。
官僚の保身の為の冷酷?、いや、これこそ 「紅旗征戎吾が事にあらず」 の延長線上で、歌の道を貫くために人情も捨てたのか?。
こんな見方もあります。定家はつくづく後鳥羽院の独断的な性格に嫌気がさしていた。また大事な跡とり息子為家が歌の勉強もせずに順徳院と共に蹴鞠に夢中になっているのが不満であった。
実は順徳院の方は若くして学問に長じ、歌にも天才的なひらめきを見せており、それに加えて蹴鞠もうまいのですけれど、為家ときたらもう蹴鞠ばっかりで、親とすると実にいらいらする----現代にもこういうケースはありますよね。
だから両院の配流は万事定家には好都合だったのだと。ほんとうにこの後為家も真面目に勉強するようになったそうです。
定家も、鎌倉方の家と姻戚関係を結んで立ちまわり、両院とは一切連絡をとりません。官位は後鳥羽院の頃より上がり、権中納言に至ります。単独で 「新勅撰集」 の撰者にもなりました。
今度こそ後鳥羽院に口をさしはさまれず思う通りの撰歌が出来ると思いきや、異を唱えたのは鎌倉でした。
この時代の美を代表する主な歌人である後鳥羽院、順徳院らを、承久の変の関係者であるという政治的理由で削らねばならなかった定家の無念。
「紅旗征戎吾が事にあらず」
政争は文学とは関係ないのではなかったのか?!
ですから、定家が晩年に撰んだ小倉百人一首の最後の二首が両院の歌で終っている事は、大きな意味を持っています。
勅撰集よりも吾が思い通りの撰をした百人一首の方が後世にもてはやされ、泉下の定家はほっとしているのかも知れません。
『みもこがれつつ − 物語百人一首』 著・矢崎 藍 発行所・筑摩書房 ヨ リ