〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/01 (木) 第二話・少年天皇入水と幼い四の宮の即位のこと
人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は (後鳥羽院)

○幼帝入水

元暦 (げんりゃく) 二年 (1185) 三月二十四日の午後。壇の浦の合戦はいまや平家側の敗色覆うべくもありません。
安徳天皇は八歳でした。髪が黒くゆらゆらとして背中を過ぎるほどある、可愛らしい少年です。年のわりに、はるかにませていらしたのは、清盛の孫として二歳で即位してからの数年、大人たちの血で血を洗う権力争いの嵐を垣間見てきたからでしょうか。
しかしさすがに二位の尼に抱き上げられ船端に運ばれて、目前にとうとうと揺れる波を見ては、ただただ “あきれたる御さま” でした。
都を落ちて以来の旅路で、尼は常に “いつか都にお帰りになる日がまいります。必ずお守り申し上げます” とささやき続けてきたのです。
それなのにどうしたのか何が起こったのか。少年は潮風の中で甲高い声を張り上げずにはいられませんでした。
「尼ぜ、われをばいづちへぐして (連れて) 行かんとするぞ」
「御運すでに尽きさせ給ひぬ」 というのが尼の答えでした。
「----この国は心憂き所でございます。ですから今から極楽浄土といって、めでたき所にお連れしましょうぞ」
少年は頷かざるを得ないのでした。少年を囲む二位の尼、母、女房たち、頼もしい武将たちすべてが行くのですから、そこには祖父の清盛も父の高倉天皇も行っているはずです。
しかし少年の若い本能はこの日の光の中で生きることを強く望んでいました。山鳩色の御衣に身を包み、髪をきりりとびんづらに結い上げた少年の目に涙が溢れます。
“御涙におぼれ” ながらも、尼のいうとおり小さな可愛らしい手を合わせ、まず東は伊勢大神宮の方向を伏し拝みお別れ申しあげ、つぎには西方浄土に向かい、御念仏を唱えるところを尼がそのまま抱き上げました。
「波の下にも都のさぶらふぞ」
叫ぶような慰めの声を放ち、尼が千尋の海の底へと身を躍らせた時、少年の目は見なれた空と雲とが傾くのを見たでしょうか。
○宝剣なき即位
その夕方、平家の赤旗印が紅葉のように散り、主なき舟の漂う海で源氏方がしきりに探している物がありました。二位の局と側近とが幼帝と共に沈めた三種の神器です。
都で源氏と手を結んだ後白河法皇は、平家が西へ落ちるとすぐに、安徳天皇を見限っていました。孫の皇子なら都にまだいるのです。
三の宮は五歳、四の宮は四歳です。 『増鏡』 によれば帝位の行方は二人の面接によって決まったそうです。三の宮は 「法皇をいといたう嫌ひたてまつりて」 お泣きになったのです。
一方、四の宮は 「おいで」 とのお言葉のままに法皇のお膝にのぼって、ご機嫌がよかった。
これで天皇になられたのだから子供の躾は大事ですね。
ただし即位はさせたものの、天皇の印である三種の神器は安徳天皇と共に平家に持って行かれているので、この “盗賊” から神器を取り返せというのが、源氏の総大将義経に課せられた最も重大な使命だったのです。
かくて内侍所 (ないじどころ) (八咫 (やた) の鏡) 、神璽 (しんし) (まが玉) はみつかったものの、ついに宝剣だけは安徳天皇と共に海底に沈んで行方知れず。にこにこと愛嬌のある四歳の天皇は、本朝始まって以来初の、宝剣なき天皇と陰口をきかれることになり、長じてからは自ら壇の浦に探索のことを行いますが結果は空しかったのです。
この天皇が後鳥羽天皇です。後白河法皇の崩御後は四歳の第一皇子に譲位して若き院となります。
○ままならぬ世
後鳥羽院は芸術にも武術にも多能多才でした。御所内で刀も鍛えるほど。手づから鍛えた刀に菊の紋をつけたのが皇室の菊のご紋のはじまりとか。
歌人としても超一流の才能を見せた院が、その歌壇の中心に、藤原定家を召すのは当然の成り行きです。そして、百首歌、歌合せ、歌会と盛んなイベントの後、院が勅撰集を思い立つのも。
建仁 (けんにん) 元年 (1201) 十一月、勅撰集の撰者に院宣が下りました。通具 (みちとも) 、藤原有家、定家、家隆、雅経、そして寂蓮の六人。このころにはもう院の御幸 (ごこう) に近臣と共に供奉するようになった定家です。百首歌を院に絶賛され、感涙に咽ぶ事もありました。
たがいに才ある君と臣。でも、二人は共に激しい性格を持っていました。一方は若いながら一天の君としての。一方はすでに中年、歌道の一人者としての自負。何しろ 「紅旗征戎は吾が事に非ず」 なのでしたね。
『新古今和歌集』 の撰進に、後鳥羽院は撰者たちを無視するまでに熱心に立ち入ります。定家と後鳥羽院との歌についての見解の相違はしばしば感情的な対立にまで発展しました。そんな定家が百人一首に撰んだ後鳥羽院の歌が、複雑な人間関係への述懐を歌っているのは皮肉な気がします。
人もをし人もうらめし (ある時は私は人に愛着を持ち、またある時は人を恨み、憎む)
あぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は (それというのも、この世など、甲斐のないつまらぬものと思ってはもの思いにふける私だから)
“思ふゆゑ” に “物思ふ” を重ねたこの歌は、読めば読むほど堂々巡りです。人間をも世の中をも信じきれず、かといって悟りもできぬ内面のもやもやは現代人の共感も呼びます。
しかし、この歌の作者が日本全土に君臨する才智に長けた帝王であり、それなのに、実は鎌倉幕府が政治、経済上の実見を握り、その帝王の地位が名目化しつつある状況を考え合わせれば、この歌の水面下の憤懣が、並み大抵のものではないということも想像できますね。
この “あぢきなさ” は、自分の所有であるべき絶大な権力をはたから奪われている “あぢきなさ” なのです。それは、失われた宝剣を探し続ける焦りとも通じるところがあるかもしれません。
『みもこがれつつ − 物語百人一首』 著・矢崎 藍 発行所・筑摩書房 ヨ リ