〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/01 (木) 第一話・月光を浴びる青年詩人の横顔のこと
来ぬひとを まつ帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ (藤原 定家)

○定家の横顔

治承 (ちしょう) 四年 (1180) 二月十四日。夜が更けるにつれ藍色の空は一片の雲もなく晴れわたり、明月がこうこうと輝いていました。
都は五条大路の一角。月光を浴びてひっそり寝静まっている邸の庭には、梅の花が今を盛りと開いて、甘い香りがあたりに満ちています。
『十四日、天晴る。明月片雲無し。庭の梅盛開し、芬芳四散 (ふんぽうしさん) す。家中人無く、一身徘徊す。』
ここにたった一人、月光と梅の香りの中をさ迷っているのが、十九歳の藤原定家です。その日記 『明月記』 は続けます。
『夜深く寝所に帰る。燈 (ともしび) 髣髴 (ほうふつ) としてなほ付寝の心無し。』
夜深く戻った建物の内は暗く、灯の光もぼんやりとにじんでいます。青年はそれまでの水の底のようにさやかな月光世界にいた興奮をしずめることができず、再び庭に出ます。そこで、この美しい世界は一瞬にして変じました。 「火事だ!」 という叫び声がしたのです。 「乾の方角だ!」
『更に南方に出で、梅花を見るの間、忽ち炎上の由を聞く。乾の方と云々。』
「これは近いぞ」 と思う間もなく風が吹きおこり、北隣の少将の邸に火の手があがりました。
定家は父俊成 (しゅんぜい) とともに牛車に乗って避難しますが、この晩、烈しい風に都をなめた焔は、ほんの少し前まで梅の花の香に満ちた俊成の邸をも焼いてしまいました。
『倉町等片時に煙と化す、風太く利しと云々、文書等多く焼け了んぬ』
夢のような月光の世界から、一転して見る炎と叫び声の現実。そこに立つ青年定家の横顔は、感じやすく激情的に見えます。この青年が、歌の天才の名をほしいままにし、 『新古今』 『新勅撰』 と二つの勅撰和歌集の撰者となり、今なおカルタとなって愛される 『小倉百人一首』 を撰ぶことになるのです。
私は百人の人と歌をたどるはじめにこの青年の横顔を思い浮かべずにはいられません。
○関係ナイ!
青年はすでに才能を現しています。父藤原俊成は晩年にできたこの末っ子に多大な期待をかけています。やや沈淪ぎみの御子左 (みこひだり) 家の将来はこの青年の肩にかかっています。将来!しかし大平の貴族の世はゆらいでいます。ここ数十年都には血なまぐさい戦乱が絶えません。
この晩の七日後には今上の高倉天皇が (何のとがもないのに---というひそひそ話の中を) 譲位しています。受禅したのは皇太子言仁 (ときひと)、平清盛のたった三歳の孫 (安徳天皇) なのです。
宮廷社会の力関係の中を、歌を業とする中流貴族は、どう生き抜いてゆけばよいのか。
美しい夜、眠りにつけぬ青年の思いの底にあるのは、先の知れぬ不安か、それとも野心か?。
さて、その九月の日記には、有名な一行が見えます。
『世上 (せじょう) の乱逆追討 (らんぎゃくついとう) 、耳に満つといへどもこれを注さず。紅旗征戎 (こうきせいじゅう) 吾が事に非ず。』
戦いの紅い旗も、反乱軍の平定も “吾が事に非ず” 私には関係ない、と、日記のすぐ後には、伊豆に挙兵した源頼朝の追討のため、遠征の軍が都を出ることが記されています。
大将軍平惟盛は定家の遠い親類で、二十三歳の美青年です。華麗な鎧に身を固めた若大将の東下りを見ようとして、都大路はお祭りさながらの見物が出たとか。
しかし、定家は “関係ナイ!” のです。彼は歌の--芸術の世界に生きるのですものね。この台詞を吐く青年の横顔は、激しい上に意地っ張り、いえ、排他的でさえあるような。
百人一首の歌は、定家が五十歳をすぎた、ふつういうなら “円熟” のころの恋歌ですが、どうしてどうして実に彼らしいロマンチックな構成美と一種の激情に貫かれています。
来ぬ人を (待っても来ないあの人を待つ私は)
まつ帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の (あの松帆の浦の夕なぎに焼く藻塩のように)
身も焦がれつつ (じりじり熱く身も焦がれているのですよ)
瀬戸内海の夏、赤々と夕日が落ちる頃、はたりと風が止んで、油のようになめらかに光る水面。じりじりと煙を立てて焼く藻塩。そこにオーバーラップする “待つ女” の情念には、定家自身が乗り移っているようです。
『みもこがれつつ − 物語百人一首』 著・矢崎 藍 発行所・筑摩書房 ヨ リ