〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/20 (土) クロパトキン

奉天会戦は、日本軍二十五万とロシア軍三十七万という世界戦史史上に類を見ない大規模な会戦である。
日本軍は兵力の絶対値と内容においてロシア側に劣っているのだが、それを承知で 「攻める」 という行為に打って出なければならない事情があった。これ以上戦争を続ける国力がなかったのだ。
対してロシアという国の軍事観念は圧倒的な兵力で勝敗を決するというもので、この奉天会戦の兵力差の優位は決して圧倒的なものとは考えていなかったようだ。
というのも、ロシア本国からシベリア鉄道によって送られて来る兵員は最終的には百万人にまで膨れあがる計算だったからである。
その意味で総司令官クロパトキンは常に多数の選択カードを有していた。しかし、そのことが結果として彼の決断を鈍らせてしまうのである。クロパトキンにとって日本軍に敗れることはありえないことであった。ぬしろその勝ち方に戦略戦術の比重が置かれていたと考えられる。
彼は慎重だった。そして慎重であり過ぎたようだ。
自らの完璧な策戦計画が現実の戦いの場で、綻びや躓きを来たして変化が生じると、全てを反古にして構築し直してしまうのだ。それが退却という行動で現された。クロパトキンはそれが出来る恵まれた環境を有していたわけである。

総司令部の参謀たちは 「鴨」 と呼ばれた鴨緑江軍が奉天東部から進攻すると、クロパトキンは大いに反応した。乃木第三軍と誤解したのだ。クロパトキンは黒木に対して苦手意識を持っていたが、いまは旅順を陥落させた乃木と第三軍に恐怖を感じていた。乃木軍を十万と過大評価していたのだ。
そしてその七日後の二月二十七日に乃木第三軍が反対の西側から進撃を開始する。ここまでは松川の作戦通りの展開となり、ロシア軍は左右に兵力を派遣していった。
三月一日早朝、奥第二軍と野津第四軍がロシア軍正面の各陣地へ砲撃を開始する。奉天会戦の火蓋が切って落とされたのである。
しかし、予想とは裏腹にロシア軍の中央の壁は厚く、進展の兆しが見られない。南山、首山堡、黒溝台と日露戦争最大の苦戦という表現を、また繰り返さねばならない状況だった。
進撃どころではない、支えることが精一杯の戦況となった。膠着状態に陥ってしまった総司令部は作戦の変更を余儀なくされる。これまで囮としてロシア軍を引き付ける役割だった野木第三軍を奉天西方への攻撃に重心を移動させた。
もとより、その行動に見合う兵力を乃木第三軍は有していなかったが、奥第二軍が第三郡の位置に移動すると、三軍はさらに奉天西北部へと迂回進撃する。
この状況にキロパチキンは必要以上のプレッシャーを感じた。そして、それまで中央部で日本軍を脅かしていたロシア軍主力を渾河まで後退させてしまう。またしてもロシア軍の自発的な撤退である。これによって中央部の日本軍は救われ、追撃に出るが、乃木第三軍と奥第二軍はロシア軍の猛攻をもろに受けることになった。それによく耐えた日本軍ではあったが、当然、その現場では収拾のつかない戦況となり、部隊が全滅という惨状も珍しくなかった。
そのとき、日本軍を救ったのが敵司令官の作戦ミスと神風ともいえる黄塵の砂嵐だった。
この段階でもロシア側の優勢は変わらなかったが、唯一司令官クロパトキンの目にはそうは映らなかった。
三月九日、突如クロパトキンはロシア全軍を奉天東北70キロにある鉄嶺まで退却させてしまう。
この日、奉天になだれ込んだ日本軍に追い風になったのが朝からの大砂塵である。それは南満州の大地と河とを凍らせていた酷寒の冬に終止符を打つ春の訪れでもあった。
凍結した河を渡った日本軍は、ロシア軍を五日にわたって追撃した。撤退するロシア軍の抵抗は激しかったが、各地で戦果と大量の捕虜を得る。そのためロシア軍は鉄嶺からさらに北方80キロの四平街まで後退した。
しかし、追撃もここまでである。
日本軍意は戦闘行動を続けるだけの砲弾も体力も残されてはいまかったのだ。
この奉天会戦における双方の被害は日露戦争を通じての最大のものではあったが、日本軍総司令部が目標に掲げたロシア軍の殲滅、もしくはそれに匹敵する甚大な被害にまでは至らなかった。
日本軍は三月十五日に奉天入城のセレモニーを行っている。しかし、大山や児玉にとって、この満州の一都市の占領など戦略的な価値を見出せるものではなかった。児玉はこれ以上のロシア軍との戦いは不可能と考え、大山と相談の上で東京の大本営に向かうのであった。
アメリカによる講和を一刻も早く進めて、この無謀な戦争を終結させることが、最大の重要課題となっていた。

「日露戦争の最大の功労者」。これがクロパトキンへの皮肉な称号である。
彼の戦略的な撤退によって日本軍は多くの危機的な状況を勝利という形で拾い上げてきた。これが南満州での陸軍の戦いの本質である。
クロパトキンには奉天会戦に破れても、まだ、日本に負けたという意識はなかっただろう。それだけの余力がロシア軍にはあり、その後も兵力は強大化するからだ。
しかし、彼を総司令官の職に留めることをペテルブルグは許さなかった。この敗戦の責任から総司令官はリネウィッチ大将に譲ることになり、本人は責任と処罰を逃れるために軍司令官に就く。
日露戦争を通じて日本軍より後方のロシア政府と軍内部の人事抗争にエネルギーを使っていた彼の保身と処世の戦術なのだろう。
中国の漢を興した高祖劉邦は宿敵の項羽と戦い常に敗走を続けた。しかし、九十九戦九十九敗で臨んだ最後の決戦に勝利したことで、全ての栄光を手にしたのが劉邦である。
その意味で連戦連勝で進軍する日本軍を最後の一戦で葬ることを夢見たクロパトキンにとっては奉天会戦後の更迭人事はさぞや痛恨事だったことだろう。
彼はハルピンでの戦いを最終決戦と位置付けていたのかもしれない。ロシア軍はナポレオンや後のヒットラーに連戦連敗を喫して、領内深く引きずり込んでは大逆転に転じていることからクロパトキンもこの最終決戦が実現すれば英雄となったかもしれない。
しかし、この英雄達が敗れたのはロシア軍ではなく、冬将軍であったことも忘れてはいけない。彼が撤退を決めた三月九日の黄塵は春の訪れを知らせるものであり、翌日には渾河に張りつめていた厚い氷は割れて解けだしていく。少なくとも黒溝台の戦いか奉天会戦が最終決戦でなければならなかったがずだ。
クロパトキンはロシア革命によってすべての公職を追放となり、小学校の教師として七十七歳の生涯を終えた。1925年 (大正十四年) のことである。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ