〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/25 (水) 鴻門の会 (八)

黄土台地の上にある鴻門の地形は、黄土という粉状土壌が水蝕作用によって無数に陥没し、陥没しぞこねた部分が低い城壁のように複雑な壁をつくり、巨大な天馬の爪でひっかきまわしたように迷走している。
項羽の本営はそれらの壁をそのまま利用できる一角にあり、この点、自然が項羽のためにわざわざ野戦用の城を作って彼を待っていたような地形を呈していた。
秦都咸陽から潼関、函谷関へ通ずる官道は、この錯綜した泥土の地形を切り開いて作られており、やがては次第に坂になってゆく。
すでに、軍門がつくられていた。
劉邦は車をとめさせた。樊? (ハンカイ) 以下を軍門外に待たせ、張良一人を伴って軍門に入った。そのまま幔幕の中へ案内された。
劉邦は、入り口に近い下座を選び、膝を屈して頭を垂れた。
やがて項羽は多数の幕僚を従えて入って来るや、たかだかと剣を鳴らして劉邦をのぞみ、さらに近づき、相手の平伏する頭の先で立ちはだかった。
ついで、咆えるようにして罵倒した。項羽はこの勢いをもって自らの手で劉邦を斬るつもりだった。
「劉邦、お前には無数の罪がある。・・・・・とりわけ」
函谷関で防戦したこと、咸陽にあっては秦の子嬰の始末 (ゆるしたこと) を上将たるわしに上申することもなく、独断でやったこと、さらには勝手に秦の法を変え劉邦の法を布いたこと、この三つにつき言い開きが出来るか、と項羽はどなった。
劉邦は這いつくばっている。項羽の靴の先を舐めるようにして顔を垂れ、声を震わせながら、そのいちいちの本意を言い、すべては大王 (項羽) のために、さらには大王に関中を引き渡すためにやったことで、この劉邦めにどういう他意が御座いましょう、と申し開きした。
(こんな男だったのか)
と、項羽は劉邦の哀訴する姿を見て、一時に気が殺がれてしまった。
劉邦はさらに床に顔をこすりつけながら、自分は大王のために力を尽くして攻め、ようやく秦を破りましたが、このように大王に思わぬ疑心を持たせたことは劉邦の不徳とはいいながら、おそらく小人の中傷があったのでございましょう、というと、項羽は潮が退いて行くように静かになり、
「中傷?」
劉邦の言葉を素直に受けてしまった。
「中傷したのは、曹無傷 (ソウムショウ) という男だ」
と、劉邦麾下の裏切り者の名まで明かした。 明かすということは、項羽の感情が劉邦への好意に一転したこととも言えるかもしれない。
(左司馬の曹無傷か)
劉邦の奇妙さは、その男に憎しみなしに思ったことであった。中傷というより、実情ではないか。
ふたたび項羽の声が落ちてきた。
「でなければ」
と、いう。密告がなければ、という意味である。
「---- わしが公を」
疑うはずがない、と項羽は言った。その声が過ぎ去って行くのを、劉邦は床を舐めながら、全身で感じた。物 (バケモノ) はいったん去ったが、安堵は出来なかった。ただ劉邦はわずかに頭をあげようとした。
「沛公よ」
項羽が再び言ったため、劉邦は音が鳴るほどに頭で床を叩いた。
「疾 (ト)う、席につかれよ」
項羽の声が、やさしくなった。そのとき、項伯が現れて、劉邦の手をとった。
酒宴の支度がされた。

『司馬遼太郎全集・「項羽と劉邦 一」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ