〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/22 (日) 鴻門の会 (五)

劉邦は口を開けてしまった。
体中の筋肉が弛んでしまった様で、下あごが上へあがらなかった。
「あす、か」
項羽という男の自分への怒りがそこまで苛烈であるとは思わなかった。
「いったい、誰が函谷関に兵を送るという策をたてたのです」
「?生 (ソウセイ) だ」
つまらん野郎だ、いいうのみで、さすがにいつもこの部屋を掃除する男だ、とは恥ずかしくて言わなかった。張良は劉邦の顔を見て、この人は物が欲しいとなると、子供のようになる、おそらく当人自身が兵を出したのだろうと察した。
「函谷関をとざして項羽を挑発した以上は、勝てるという自信がおありだったわけですな」
張良は劉邦のそういうところが嫌いではなく、皮肉でなくそう言った。さらに、いかがです、いまも勝てるおつもりですか、と聞くと、劉邦は見も世もないといった風情で、
「とても」
と、声が小さくなった。頼む、とも言った。なにかこの窮状からのがれる手だけはないか。
張良にも、策などない。ここに及んでは項伯にすがり、彼に平和の仲介人になってもらうしかなかった。劉邦は項伯という名を聞き、驚いてしまった。卿 (アナタ) とどういう関係がある、と息をはずませて聞いてきた。張良は、昔の一件をいった。
(救われた)
と、劉邦は思った。項伯が、むかし張良に助けられた恩に対し、これまでして報いようとする人物なら、自分にも何かの役に立ってくれるだろう。ただし項伯の侠は、張良で行き止まりである。その点、劉邦もわかっている。このため自分もその侠の仲間に加えてもらおうと思い、とっさに儀式を思いついた。劉邦は本来任侠道の出であるために、その種の儀式はよく知っている。
「子房 (ジボウ) (張良) よ、教えてくれ、項伯どのはあなたより齢上か」
「上です」
「私よりも?」
この大陸では、年齢の秩序は儒教の以前から厳乎としてある。
「若く見えますが、実際には五十に近いかと思います」
「すると、私より兄だ。わが兄者ということになる」
劉邦は項伯の意志に関わりなく、しゃにむに義兄弟の契りを結びたがった。義兄弟の契りを結べば、義は血よりも、それが義であるがために強い。項伯は死を賭してでも劉邦を守ってくれるに違いないと思った。
張良は別室に戻り、沛公に会ってくれ、と項伯に頼んだ。さすがに項伯はそれだけは勘弁して貰いたい、と言ったが、張良が、
「それだけが、いま私を救ってくれる唯一の道だ」
と言った為に腰を上げざるを得なかった。
劉邦はすっかり衣服をあらためていた。
項伯が部屋に入ってまず驚いたことに、初対面の劉邦がはるか下座で拝礼し、次いで膝をもってにじり進んで項伯の手を取り、上座にすわらせ、兄として礼遇したことだった。儀式は既に始まっていた。
やがて大杯が運ばれてきた。
(義兄弟になるということか)
項伯はやっと気づき、念の為張良の方を見た。張良は恋をする少女が眼でもって相手に情意を訴えるように、項伯に対し無言で頼む、と訴えた。項伯は押し切られた。
やがて張良は侍立の席から立ちあがって、両人のために酒を注ぎ、媒介の役をつとめた。項伯はその杯を干した。
(これで、劉邦と義兄弟になってしまった)
思いもかけぬ事態の変化というべきであった。項羽軍の一将が、総攻撃の前夜に敵将と義兄弟になってしまうなどとは、どういうことであろう。が、項伯は全体のことなど深く考えない男で、ひどく透きとおった表情をしてさらに数杯の酒を劉邦とともに干し、互いに杯の底を見せあって微笑しあい、その所作ごとに、互いの寿を祝った。
あとは、弟として劉邦は自分の本意を述べた。
「弟 (テイ) は項将軍から誤解を受けております」
自分はたまたま先に関中に入ったが、この地を占有するつもりではなく、項羽殿の入るのをひたすらに待ち、その命に従おうと思っていた。秦の官物を私有しなかったのもそのためであった、と言った。さらに項将軍に献上すべく吏民の戸籍を記録し、府庫を封印し、自分自身も中を見ていない。次いで、函谷関に警備の兵を出したのは流賊が入るのを防ぐがためであった、と言い、
「それらのことがことごとく裏目に出て思わぬ誤解を受けるもとになりましたこと、これではこの劉邦は死んで野死に切れませぬ」
と、言った。
(これは、わしに命乞いをせよということだ)
項伯は思った。項伯も、劉邦の言葉がそのとおりであるかどうか疑わしく思っている。しかし義兄弟の契りを結んだ以上、事情の説明の裏側の真否などどうでもよく、要は頼まれたということしかない。要するにこの義弟は自分のこの言葉を項羽に伝えてくれということであろう。
「心得た」
項伯は言った。
「私は、今夜、帰陣して羽 (項羽) どのに伝えてみる。しかし羽の性格からみて、あなた自身が羽の前へ出、あなた自身の口から出る言葉を聞きたがるだろう。明朝、できるだけ早く鴻門の本営へ来られよ」

『司馬遼太郎全集・「項羽と劉邦 一」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ