〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/21 (土) 鴻門の会 (四)

夜に入ると、項羽軍の軍容はいよいよ華やかになった。
数万の篝火 (カガリビ) が地の続く限りかがやき、空の雲気をあかあかと焦がした。
劉邦は、肝をちじめてしまった。項羽軍が函谷関を破って関中に入って以来、劉邦は一瞬も気がやすまったことがない。本来なら劉邦自身が函谷関まで出迎えに行くべきところであったが、不覚にも逆に門をとざし、弓矢を交えてしまった。
(なんという熾んな篝火だ)
今まで運がよすぎた。どうやら年貢の納め時が来た、と歯の根のあわぬ思いでその光景を見た。遁げ出そうかと思った。身一つで遁逃げるというのは劉邦の得意芸であったが、それ以外にこの窮地を脱け出す方法はない。
劉邦は張良を思い出した。
関中が治まってから、あの戦争屋の張良は不要になった。このあたりが劉邦の癖であった。必要とあれば本心から相手に熱を入れ、その足を舐めろといわれれば懸命に舐めてしまうような態度を示すのだが、必要でなくなるとあっさり忘れてしまうのである。冷淡とか功利的とかご都合主義とかということではなかった。劉邦の性格におけるこの機微は説明し難く、あるいは陽気さを帯びつつ欠けたもの、もしくは一種の無邪気さというべきものだった。この無邪気さがあるために誰もがその面を許した。
しかし張良自身は、劉邦のそういう面を好まない。その冷淡さから自分の神経が無形の被害を受けそうになると、敏感に察し、
(この男にとって自分は必要でなくなったのだ)
と、自らに言いきかせ、影のように静かに身を退き、劉邦の帷幕に近づかなくなった。
しかしいまは再び劉邦が張良を欲している。
日没後、劉邦は火がついたようにして張良を探させた。すぐには見つからなかった。
張良は形式上、韓王の兵を預かるという形で、自分に直属する百人ほどの部下を持っていた。その部下たちはみな亡韓の遺民の子弟たちで、彼らは他の流民や流盗あがりの諸隊とは異なり、兵に向かないほどにおとなしく、主として張良のために諜報の仕事に任じていた。
静かな部隊ではあったが、しかし張良を見ること神に対するようであり、張良が下す命令のためなら死をも顧みなかったため、荒くれた他の諸隊よりむしろ戦場では強かった。
彼らは、張良を懸命に守っていた。劉邦の使いが来た時も、
「すぐには申しあげられません」
と、居所を教えなかったほどであった。自分たちは張良に仕えているのであってその上の劉邦とは直接の縁はないという明晰な論理をもった態度であった。さらには本当に劉邦の使者かどうかそういうことさえ一度は疑ってみるという態度でもあった。

張良は左右の数人に居場所を明かしている小屋の中にいた。小屋の外を護衛兵に固めさせながら、ひとりの初老の男に会っていた。
男は半白のちぢれ毛を無造作に巻上げて巾でおおい、胡人のように落ち窪んだ眼窩をもち、その底から小さすぎる目が、偏執狂のように光っていた。
無口で、ときどき返事のかわりに笑う。笑うと、人変わりするほどに清潔な感じがしたのは、歯が齢不相応に皓いせいでもあった。
項羽のおじである。
項羽には、彼の育ての親であり、友の兵を挙げた故項梁がいたが、しかし本来亡楚の名族で血縁が多かったため、嫡庶とりまぜて伯父、仲父、叔父、李父が幾人かおり、いとこも多かった。それらの何人かが挙兵後、傘下に加わっていた。
張良と密会している男は、項羽の亡父の末弟であった。
項羽の陣中では、
「項伯」
と呼ばれていた。名は纏 (テン) である。字は別にあったのだが、人々が伯々と呼ぶために (李のおじを伯と呼ぶのは変ではあるが) 面倒になってそれを自分の字とした。
たしかに物に拘る性格であったが、一面、そういう無造作さを持っていた。ともかくも痩せたその体つきの印象としては、小さな金槌で釘を打ち込むような激しさと単純さと歯切れの良さを感じさせた。
項伯は、不良少年のあがりだった。
楚が滅び、元来、項家の一族が秦ににらまれていた為に一族が四散し、項伯も各地を転々として流浪せざるを得なかったから、尋常な半生を送れるはずもなかった。人を殺したこともあった。
かっての戦国の名家の子で、秦の世になって流亡した。という点では張良の半生も似ている。張良は博浪沙 (ハクロウサ) で始皇帝を搏撃 しそこね、遁走して流浪し、名を変えて下? (カヒ) に住み、そこで侠客のような暮らしをしていたという点でも、項伯に似ていた。
あるとき、殺人の罪で追捕されていた項伯は下? (カヒ) に入り、人の紹介で張良を頼った。
「命に代えても、あなたを守りましょう」
と張良は約束した。
張良にとって項伯は親しいというほどの仲ではなかった。
これをかくまうことは利害によるものでも情宣によるものでもなかった。
----- 自分には侠というものがある。
という自他への証というべきものであった。それだけに、この行為は激しかった。
侠という。
この倫理は、男伊達、世話好きといったものではなく、のちの日本にも欧州にも類似した精神が見当たらない。立場は違うが、質としては、十六世紀のイエズス会の殉教精神に激しさだけは似ている。
戦国という乱世は、既に述べたように、古代的な商品経済の隆盛時代でもあり、活発な思想の時代でもあった。
様々な要素が入り混じって、中国史上、類がないほどの鮮やかさで個人を成立させた。その後、この鮮やかさがおそろしいほどの勢いで褪色 (タイショク) するのだが、ともかくも戦国から秦にかけて、王朝は頼むに足りず、むしろ秦時代、絶対権力が餓虎 (ガコ) のように人を害 (ソコナ) ってきたため、個人が互いに横に並んで守りあわざるを得なかった。
いったん結べば、全ての保身、利害の計算を捨てて互いに相手を守りあうという侠の精神が作動した。侠には理屈がなく、それそのものが目的だった。中国にあってはその侠の精神と習俗ばかりは様々に形や質を変えて後世まで伝えられ、この大陸の精神史における別趣の塩分となっている。

ともかくも張良は別の友人から項伯の保護を頼まれた。繰り返し言うようだが、項伯が気に入ったためにそうしたということではなかった。いわば無打算の侠心といってよく、侠の本質もそこにあった。
しかし保護してから項伯が好きになり、項伯への保護に熱意が加わった。
その後、世が乱れ、項伯は項梁に従い、その死後、おいの項羽軍の一将として戦場を転々した。
張良が劉邦軍の中にいるということも仄かに聞いていたが、下? (カヒ) 以後、たがいに隔ることが遠く、音信もなかった。
項羽軍が関中に殺到して新豊台に布陣したとき、項伯は、明朝、自軍が霸上の劉邦軍を総攻撃することを知り、
(張良の侠に酬ゆべき時が来た)
と思った。
(このままでは張良が死ぬ)
と、項伯は判断した。あとは、いっさいへの顧慮がない。
項伯もまた侠の証をせねばならない。彼は、夜、軍営を脱し、駈けた。一騎だけ駈けとおし、張良の陣地に走りこんで、密かに会ったのである。
「私と一緒に逃げよう」
と、項伯は多くを言わず、その言葉を繰り返した。
言う必要がないほどに劉邦軍の敗北はわかりきっていたし、張良が敗死することも明白であった。
逃げよう、と項伯はいう。逃げて項羽軍に身を寄せよとは言わなかった。張良がそういう男でないことは知っていたし、自分自身も裏切りを勧めたくはなかった。項伯自身、項羽に内緒で敵と接触している以上、これについて事態がこじれれば身分を捨てて張良と一緒に逃げる、というところまで思い切っており、そういう思い切りもまた侠という精神に属する。
「明日、総攻撃か」
張良にとって、この情報の衝撃のほうが大きかった。逃げる、逃げぬについては、張良ははっきりと立場を述べた。
「自分は韓を復興しようと思い、韓王を立て、それに仕えている。その復興のために劉邦に身を寄せている以上、逃げることは不義である。ともかくもあなたが教えてくれた明朝の総攻撃を劉邦に告げたい。かまわないか」
「かまわない」
項伯は言った。この場ではただ侠をのみ遂げるという項伯の錐のように鋭い目的からいえば他のことは全て余事であった。それが項羽軍の機密を漏らすという結果にはなるが、そういうことは、張良への恩返しという個人の大事から見れば塵埃ほどに小っぽけな雑事に過ぎない。
「では、あなたは証人として沛公 (劉邦) の陣営まで同行してくれるか」
「かまわないとも」
同行することが、どういう意味を持ち、どんな結果になるかは、項伯の知ったことではない。
すぐさま両人は騎走して劉邦の本営に到った。先ず項伯を別室で待たせ、劉邦に謁し、明日項羽軍が総攻撃を仕掛けてくる、と伝えた。

『司馬遼太郎全集・「項羽と劉邦 一」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ