〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/20 (金) 鴻門の会 (二)

彼の営中に、物を運んだり、床を掃除したりして庶務をする小男がいた。青ぶくれした小さな顔で、いつも表情がなく、この男をどこで拾ったのか、劉邦は覚えていない。それどころか、名さえ記憶していなかった。
---- あれは、どこの男だったか。
と、後日、劉邦は左右に聞くと、聞かれた者があきれて、沛の町からずっとついてきた男じゃありませんか、と答えた。沛の町の男だから安心だということで営中の掃除をやらせるようになったのだが、これほど印象の薄い男も珍しかった。
あるとき、その男が営中の土間に紛れ込んできた豚を追い出したあと、劉邦にむかって、
「将軍」
と言ったときばかりは、蚤が口をきいたほどに劉邦は驚いた。
この男も、栄達したかったのである。なにか献策してそれが妙案なら劉邦が喜び、人間ぐるみ取り立ててしまうのを掃除しながら見ていたのであろう。
「なんだよ」
「将軍はやはり関中王におなりあそばすべきだと思います。それを望む声が地に満ちております」
(蚤が、なにを言いやがる)
ろ思ったが、劉邦は自分に献策するものに対してはそれが誰であろうと師として礼遇する習慣を持っていたため、居ずまいだけはただし、
「言いたいことを言ってくれ」
と、言った。
「函谷関に兵をやって扉を鎖してしまえば中原の軍勢はここに入ることは出来ませぬ。それでもって関中王におなりになればよいではありませんか」
と言ったとき、冷静な場合の劉邦なら、この子供っぽい案を大笑いしたにちがいない。しかし体が浮き上がるほどにいい気分でいたときだっただけに、
(ああ、そのとおりかもしれぬ)
と、乗ってしまった。たとえば他家の留守中に入り込み、門さえ閉ざしてしまえばおれの家だと言うようなもので、愚案と言うことすら愚かなほどの案であったが、この場合の劉邦は浮かれてしまっていた。この男を招き寄せ、
「?生 (ソウセイ)
と、嬉しそうに叫んだ。 名ではなく、? (ソウ) は小魚、つまりはちび公よ、というとっさのあだ名である。その案を貰おう、ただし人には洩らすなよ、と言った。洩らすとたいていの者が反対するだろうし、それ以上に恥ずかしくもある。その程度の理性はむろん劉邦にはあったが、もうこの時期は酔ったような気分になっていたことも確かであった。
劉邦はすぐさま一将を呼び、函谷関を閉じさせるべく急派した。

項羽軍の進撃路は、ほぼ現在の隴海 (ロウカイ) 鉄道沿いといっていい。 経路沿いには黄河が流れ、都城が連なっており、関中に対する大手門攻撃の進路というべきであった。
項羽はいたるところで秦の都城を攻めつぶし、揉むような勢いで西進した。ついに函谷関に達したのは酷寒の十二月である。懐王の命を受けて劉邦と共に彭城 (ホウジョウ) (のちの徐州) を出発した頃から数えると一年と三ヶ月、秦の章邯将軍を降してから三ヵ月後に、ようやく秦の根拠地の関門にたどり着いたのである。
函谷関は、のち別な場所に移された。
この時代のそれは後に古関と呼ばれる位置にあり、まわりは樹木少なく、岩とも乾泥ともつかぬ黄土層の断崖や降起でかこまれ、一道がかろうじて通じていた。関所は頑丈に要塞化され、全体が恰も函の中にある観がした。
項羽は、異変をこの関所を仰いでから知ったのではない。
その前日、明日こそ函谷関に達するという午後、先鋒軍から伝令があわただしく駈けてきて、劉邦は既に関中にあり、その兵が固く函谷関を閉ざし、城頭に無数の赤い旌旗 (セイキ) をたなびかせて外来軍を拒絶している、という旨のことを報じた。

項羽の到着は、劉邦に遅れること二ヶ月であった。
この期になって関中の異変を知るなど、項羽軍が情報に対していかに鈍感だったかということになるが、逆に、関中という天嶮でもって鎖された地理的特殊性がそれほどに際立ったものであり、関中の情勢が中原にいかに洩れにくいかということが 、この一事でも理解できる。
項羽は激怒したが、しかし半ば報告を信じなかった。
(まさか)
という気持ちがあった。項羽が本営を前進させたのは、他人の言葉よりも自分の目でものを見ることによってはじめて物事を認識するという質だったからである。この性格はしばしば項羽に利し、ときに致命的なことで項羽に不利を招いた。函谷関に近づくと道が狭くなり、
「殆不見日 (ホトンドヒヲミズ)
という地形になってゆく。そのわずかな天が夕日で赤くなったころ、天よりも高い旌旗の群れが関の城頭に翻っているのを項羽は確かに見た。赤は劉邦軍の色であった。
「あの百姓めが」
項羽はうめいた。
「破って通るのみですな」
かたわらで、謀将の范増 (ハンゾウ) が、老い錆びた声で言った。
項羽はこの事態を予想もしていなかった。
彼は農夫あがりの劉邦を馬鹿にしきっていたし、その戦さ下手と臆病さについては目の前の冬枯れの小枝の数以上の実例を知っており、あの劉邦が天嶮と秦軍を破って関中に入るなどは夢にも思っていなかったといっていい。
----- あんな奴が関中王になるとは。
そんな事態が許されることではなかった。楚軍は本来、おじの項梁と自分がつくったものであり、劉邦など、雑然とした小部隊を率いて途中から陣借りしてきた男ではないか。
憎悪は劉邦に向けられたが、しかしそれ以上に後方の彭城にいる懐王に対し、殺してその肉を啖 (クラ) いたいほどのものを感じた。懐王が自分に直接経路を許さず、はるか北方の秦軍と戦わせたために遅延した。そういう繰り言が、この結果を眼前に見て爆けるような怒りに変わった。
「当然だ」
と、項羽は范増の攻撃論に賛成し、翌朝、この狭い場所に大小の飛び道具と人数を集中し、火を噴くほどに攻め立てて関門をぶち破ってしまった。

『司馬遼太郎全集・「項羽と劉邦 一」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ