〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2007/04/19 (木) 鴻門の会 (一)

『漢書』 食貨志 (ショツカシ) のくだりをながめていると、劉邦が関中に入った翌年のこの地の飢饉のひどさは、想像を絶するほどである。
古来、沃野 (ヨウヤ) 千里の地といわれていながら、食用穀物がわずか五千石しか穫 (ト) れず、人が人を食い、餓死する者が人口の半分に及んだ、とある。
中国は既に秦漢以前から比類ない大文明を築いた。しかし食人の風があった。とくに飢饉や戦乱にあっては子を易 (カ) えあって食い、あるいは市に商品として人肉が出た。

劉邦が関中に入ったのはその記録的な大飢饉の八ヶ月前で、しかしながら予兆があった。すでに関中は餓え、家々の糧食の貯えはとぼしかった。
その上、劉邦軍が入り込んでいる。劉邦は全軍を霸上に結集させて咸陽の市外に入れず、いっさいの掠奪を禁じてはいるものの、軍隊はその成立の本質からいって流賊である以上、士卒のはしはしの行為までは取り締まれなかった。
さらには軍としての正規の糧食調達があり、それらはすべて関中の農民たちの乏しい貯えを巻上げることでまかなわれた。
劉邦はすでに、
「関中王」
としての気分でいる。戦渦と飢饉であえぐ関中にやってきて、にわかに王としてその田園の上に乗っかっているのだが、これ以上収奪すれば、農民たちは関外へ逃亡せざるを得ず、逃亡されてしまえば王権など有って無いにひとしい。劉邦は元来、思慮がとりとめもないところがあったが、この一点においては、生い立ちが農民だっただけに誰よりもよく知っていた。
秦は、法で治めた。その法は煩瑣 (ハンサ) で厳しく、秦政権そのものが罪人の製造機械のようなところがあった。
この大陸の住民たちは、自然の循環のままに身をゆだねていることが好きで、元来法という人工の大網のなかで拘束されることを好まなかった。法治というのは、食糧の豊かさと平和を前提とする。
兵乱と飢饉というせっぱ詰まったこの状況の中では生存のためについ法を犯さざるを得ず、そういうことでいちいち警吏に襟髪を掴まれては生きてゆくことが出来なかった。
劉邦には、この機微が体でわかった。
彼は関中をおさえた翌日、全ての地方の父老たちを呼び集め、
「秦の法は、ことごとく撤廃する」
と、宣言した。さらに、
「法は、三章とする。すなわち人を殺す者は死刑、人を傷つける者、あるいは人の物を盗む者は、それぞれ適当な刑に処する。それだけじゃ」
といった。
略奪の禁止と右の秦法の撤廃と法の簡素化ほど劉邦の関中における人気を高めたものはなかった。
この大陸の社会は、巨大な専制権力を成立させるための全ての条件を持っている。つまりは政治論が何よりも重要な土地であり、同じ意味で善王を待望する土地でもあった。農民にとって王権の害は、ふつう流賊の害よりはなはだしい。より害の少ない王権を宣言する者が善王あった。その意味では劉邦は注文どおりの王ではなかったか。
劉邦は、そういう呼吸はすべて心得ていた。
「わしは秦の害を取り除くために来たのだ」
とも言った。
しかしながら劉邦は後年、帝国を形成してゆくときに 「法三章」 の約束は捨てた。この大陸で小地域ごとに封建国家があった時代 ---- 春秋戦国 ---- は法よりも習慣で治めることが出来たが、天がおおう限りの大地を一つに統一して帝国を作るという途方もない作業をやる場合、その奇跡を最初に演じた秦帝国のやりかたに従わねばならぬ事が多かったのである。
劉邦はそれよりも以前に、秦の吏員を全て許し、その行政組織をつかって難なく民治の継続に成功した。この点でも、郷村の父老や吏員たちを安堵させた。
ひどく即物的な人気取りもした。
たとえば、劉邦の新政に喜んだ父老たちが、次々に牛や豚を運んできて献上しようとしたが、劉邦は断った。断るについて、いちいちじかに会い、
「秦の父老よ」
よ、ゆっくり言った。
「わが倉庫に積んだ軍糧は多くはないが、しかし士卒は餓えるに至っていない。郷村のほうが餓えているはずだ」
この言葉は電流のように関中の隅々まで伝わり、郷村を喜ばせた。彼らは、想像以上に軽い王権が劉邦によって成立するかも知れない、と期待した。劉邦も、その期待に沿った。
父老たちの劉邦への期待は大きくなり、
----- もし沛公 (劉邦) が秦王 (関中王) になってくれなければどうしよう。
というところまで、人気が高まった。
この時期になると、関中の吏員も父老も、楚軍の内情がよく見えるようになっていた。楚の懐王が、関中にいち早く入った者を関中王とする、という約束をしたことも知っていたし、劉邦の競争相手である項羽が楚軍の事実上の王権者であり、項羽は北方の野で章邯と戦ったために関中入りが遅れていることもわかっていた。さらに項羽がゆくゆく関中に入ったあと、諸将が合議して (というよりも項羽自身が決めて) はじめて劉邦の関中王であることが決定するということもその知識の中にあった。
以上の理由で劉邦の地位が極めて不安定なものであることも、地元の連中はよく知っていた。
劉邦は毎日のように、
----- あなたさまが関中の王になってくだされば。
という言葉を聞かされた。
劉邦は元来が人のおだてに乗る男であった。そういう性格の男にとってこれほど耳に快い言葉はなく、ふと夢ではないかと左右を見まわすほどだった。
ほんの三年前まで生まれ故郷の農民から嫌われ、実家の長兄から無視され、嫂 (アニヨメ) から露骨に厄介者扱いされていた人間が ---- さらには秦帝国のお尋ね者として沼沢に隠れて流盗を働いていた男が ----- いまは秦の故地の人々から王になってくれと哀訴するようにして頼まれているのである。
これが現 (ウツツ) と思えるか、と劉邦はときに卓をたたいて自分をどなりあげたいような昂奮を覚えた。

『司馬遼太郎全集・「項羽と劉邦 一」 』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ