〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/20 (土) 小村 寿太郎

日英同盟締結後、軍部は対ロシア戦争に向けてその準備に忙殺されていたが、それと並行して日本政府は戦争回避の外交交渉を根気強く続けていた。
しかし、ロシア側の譲歩は一切見出すことが出来ない。結局、明治三十六年十月三十日までの五回にわたる日露交渉が不調に終わると、日本政府は会戦やむなしの判断に傾く。
外務大臣・小村寿太郎は桂首相、山本海軍大臣と密かに協議を重ねていた。その席で、小村は日露開戦の場合、絶対に清国を参戦させてはならないと力説する。
確かにわが国の国力ではロシアに勝つことは至難の業である。そこで日本同様にロシアの脅威を有する清国が、共に対ロシア戦に参戦すれば戦局は有利に傾くのではないかと考えた首脳陣もあっただろう。しかし、そこに清国を参加させれば立場上ロシアにフランスやドイツが付く可能性が出てくる。そうなれば英国も参戦するだろう。なた、清国国内が不安定となり列強に干渉される要因をつくりかねない。
この戦争は日本の意志で始めて、終結させなければならないと小村は訴える。そこには、この戦争の拡大阻止と日本の国益を睨んだ小村の卓越した戦略が窺がえる。

小村寿太郎は維新の功績などない日向の小藩出身で、決して恵まれた境遇とはいえなかった。大学南校 (現東大) から文部省留学生としてハーバードで法律を学ぶ。帰国後、司法省入りしたのち、その語学力を買われて外務省へ。
それからの小村は翻訳局長としてクスブリ続け、生活は極貧の中にあった。彼の父が飫肥藩重役として維新後、事業に失敗した債務が彼に重くのしかかっていたのだ。いや、正確に言うと寿太郎自体がその債務処理を誤まって膨らましたというのが真相であり、さらに、家庭にその居場所を持ち得ず、待合の酒に安息を求めたためとも聞く。
彼の妻・まち子は希代の美貌の人で、その父・朝比奈孝一は元宮内省高級職員という超お嬢様だった。しかし、家庭生活とは対極にある女性で芝居に入れ込む世間知らずだったという。
小村には彼女のヒステリーが耐え難かった様で、それが彼の情熱を 「愛国」 へと邁進させるのだから世の仕組みとは不思議なものだ。
このクスブリの中で小村はじっと自分の舞台を待ち続ける。
小村の転機は明治二十六年、外務大臣・陸奥宗光に認められ駐清国公使館参事官任命から始まる。それは外交官小村寿太郎の新たな苦難の始まりでもあった。
それから十年。小村は外交官としてこまねずみのように働き、その風貌から列強の外交官達に 「ねずみ公使」 と渾名されていた。
日清戦争後、三国干渉という辛酸を味わった日本は臥薪嘗胆で対ロシアの気運を高めていたが、この間、小村は日本の国益という一点にその全思考を集約させていた。そして、運命は小村を外務大臣という立場に押し上げ、日本の国家存亡の危機に立ち向かわせて行くのだった。

明治三十七年二月四日。御前会議で対露開戦が決定され、ロシアに国交断絶を宣言する。
このとき、ロシア当局の詰問に 「国交断絶は戦争ではない」 と言い切ったその足場の確かさに外交官小村の凄みを感じる。
生前に小村は、
「外交官は、嘘をついてはならない。外交官という者は、どうせ一生に一度は、すばらしい嘘をつかねばならないから、普段に嘘があると、効き目がなくなる」
と、言っていたという。
これは小村と仲のよかった秋山真之が日露戦争後
「戦争は多くの生命を犠牲にするので、普段は無益の殺生はしまいのだ」
と、子供達に語った言葉と併せて興味深い。
日本はこの未曽有の国難を多くの犠牲を払って歴史的な曲芸と天佑で乗り切っていく。
そして、日露戦争終結。
ポーツマスに向かう彼の胸に、かって勝海舟から贈られた言葉が去来する。
それは三国干渉によって、親ロシア政策に傾こうとする韓国に起こった閔妃暗殺事件の事後処理に向かう際のものだ。
勝はこの至難の任務に対して
「生死を度外視する決心が定まれば、目前の勢いを捉えることが出来る。難局にあたって必要なことは、この決心だけだ」
として、さらに、
「内閣からも爪弾きにされ、国民から恨まれるかも知れない。朝鮮人やロシア人から憎まれるかも知れないが、よい子になろうなどと思うと、間違いが起こる。天下みな、おまえさんの敵になっても、氷川のじいさんは、おまえさんの味方だと思っていなさいよ」
とも付け加えた。
小村はこの言葉を生涯胸に刻み 「ことの善悪は、その人の決心ひとつで定まる」 と語ったという。
彼の執念と信念はここから発しているのだろう。

大方の世論の期待を裏切る形で締結された日露講和条約。日露戦争の実態を知る我々であれば小村の奮闘は十分理解できるのだが、当時の日本の世論とマスコミはそうではなかった。
彼の名は日露戦争時の外務大臣というよりも、日露戦争終結のポーツマス条約によって知られている。
しかし、小村の外交官としての戦いは日露開戦以前から戦後処理、そして、念願の不平等条約の改正 (関税自主権の獲得) とその五十七歳の生涯を閉じるまで続いていたといえるだろう。
それは私心なく日本の 「国益」 という一点に集約されていたといっても過言ではない。
日露戦争後の満州経営にあたっての小村の戦略の誤りは現在の歴史認識では結論が出ているようなのでここでは触れない。
不平等条約改正に成功した後、外務大臣を辞任すると、その三ヶ月後に病没した。
中国の春秋時代に、その舌をもって国を動かす縦横家というものが存在したという。
はたして、小村はクスブリ時代に夢見た自分の活躍の場と現実のそれとを照らし合わせて、どのような思いを抱いたのだろうか。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ