〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/18 (日) 清盛の盛衰 I 
○以仁王 (モチヒトオウ) の乱の舞台・宇治 B

結局、以仁王は殺され、結果から見れば橋合戦は平氏方の勝利となった。だが清盛は安堵などしていない。むしろ以仁王が謀反を起こしたことに、大きな衝撃を受ける。
特に源氏方に味方した円城寺、興福寺については怒りがおさまらず、五月二十六日、まず円城寺を攻めるため、息子の重衡と孫の通盛を大将として三千騎で攻め込ませた。円城寺側も迎え討つが、兵士方が寺に火を放ち、建物は悉く焼き尽くされ、多くの経典や仏像も一瞬の内に灰になった。生き残った僧たちも処刑した。
但し、清盛はこれでは安心できない。源氏が又いつ牙を向けてくるかわからない。ともに背後で糸を引いているのが後白河法皇であることも知っている。
わずか数日後の六月二日、清盛は福原遷都を決め、公卿や家臣共々福原へ移った。
福原遷都の噂はかねてからあった。福原には清盛の別邸があり、対宋貿易のため、港の整備も進めていた。経が島という波止めのような役割を果たす人工の島も築いた。
古くは大輪田泊 (オオワダノトマリ) と呼ばれ、現在の神戸港の一部といわれるが、具体的な位置や規模についてはわかっていない。
それにしても突然の福原遷都の真意はどこにあったのだろう。京にいては身に危険が迫るとは、さすがい思わなかったろうが、自分が権力を掌握している事を天下に知らしめたかったろう。そのためには人々をアッといわせることをしなければならない。清盛の権力というものを見せつける必要がある。
ただこの時の清盛には、音戸の瀬戸の開削工事をしたり、厳島神社を造営した頃のような心の余裕がない。
六十三歳になった清盛は怒ることが増え、思考に柔軟性を欠いている。見え隠れするのは、独裁者が袋小路に嵌ったときの了見の狭さのようなものだ。
清盛はいったん幽閉を解いていた後白河法皇を、以仁王の謀反に関与したものと判断し、福原に板屋を造って再び幽閉した。その上で改めて、三歳になる安徳天皇の外舅として辣腕をふるおうとした。
もっとも福原遷都は、貴族たちに極めて不評であった。平安京と名付けたのは桓武天皇で、平氏とは殊のほか縁があった都なのに、なんと無法な事をしたのか、と、 「平家の悪行も極まった」 と陰口を叩く者さえある。 人心を掴むつもりの遷都が、逆に離れていく結果となったのだ。
また遷都を機に、平氏の人々に不吉な出来事が起こるようになった。
清盛の寝室にあやしい顔が現れて覗いたり、新しい御所では大木の倒れる音と共に多数の天狗の笑い声が聞えたり、中庭に髑髏がいくつも転び、やがて一つになって、無数ので清盛を睨んだりした。
極めつけは、清盛の愛馬の望月の尾に、鼠が一晩で巣を作ったことだ。鼠のような小動物が馬のような大きな動物に取り付く事は、世の中の傾勢が変わる変調として、極めて不吉なものとされた。
平氏の滅びの序章として、 『平家物語』 はいくつもの逸話を並べる。物語性を高める上での効果を狙っているのだ。 『平家物語』 は琵琶法師や瞽女 (ゴゼ) と呼ばれる人々によって広まった 「語り物」 といわれる文学形式である。そのための多くの異本があるが、基本的には聴衆の想像力を掻き立てるような要素を必要とした。
やがて清盛の許に、伊豆で流人生活を送っていたはずの源頼朝が、石橋山 (神奈川県小田原市) で戦い、敗走したという報が飛び込んできた。

『 「平家物語」 を歩く』 著・見延 典子 発行所・ 山と渓谷社 ヨ リ